125「甲州の退き口(後)」



赤沢嘉兵衛(?―?)

加兵衛。真田昌幸家臣。沼田出身で、上州へ進出して来た真田氏に仕える。天正十年(一五八二)、昌幸の妻子が甲府を立ち退く際にこれに従う。その後、勘気を蒙り主家を退去。天正十三年の神川合戦に従軍し、戦功をあげ帰参したという。生涯において首級二十五を捕るという豪の者と伝えられる。

◆天正十年(一五八二)、宇内無双を誇っていた武田王国が崩壊し、その余波は信州の小大名真田一族をも翻弄しつつあった。甲斐府中に証人として留め置かれていた真田昌幸の妻子たちは、はるばる上野国吾妻を目指し、混乱の巷と化した武田の本拠をあとにした。吾妻郡岩櫃城では、真田家の当主安房守昌幸が織田・徳川連合軍を迎え撃つべく、籠城の準備にいそしんでいるはずであった。

◆この時、のちの伊豆守信幸こと源三郎十七歳。左衛門佐幸村こと源二郎は十六歳であった。兄弟はけなげにも一行を襲う一揆を蹴散らし、自分たちの母山手殿を護持して父の待つ上野へ向かっていたが、そこはまだティーンエイジャー。緊張の糸が切れるのも早い。

◆父昌幸からの迎えもやってきて、ほっと安堵した一行。沼田街道へ出たところで、大笹村入口(あるいは横谷村)の雁ヶ沢という場所に辿りついた。ここで休息しようということになったのだが、源三郎・源二郎兄弟はまだまだ元気いっぱい。雁ヶ沢にかかる橋の上から谷底を眺めていた。

源二郎「うひゃあ。深いなあ」
源三郎「この橋から飛ぶおりることができる勇者はおるまい」

◆雁ヶ沢という地名は、そもそも雁がこの谷へ下降していっても、ふたたび上昇してくることさえ難儀である、ということでつけられた名である。深さ数丈、両岸は屏風をたてるが如き険阻な断崖。到底、人間業の及ぶところではない。だが、この時、真田兄弟のつぶやきを聞いていた男がいた。昌幸の家臣赤沢嘉兵衛という者だった。

嘉兵衛「どれ。それがしが飛んでご覧にいれましょう」

◆驚いて止める真田兄弟。その制止を振り切って、嘉兵衛はバンジー・ジャンプ。いや、ロープはついていないのだから、文字通りの落下。ひらひらと赤沢の衣が舞いながら次第に見えなくなった。

◆吃驚したのは真田兄弟。自分たちの他愛ない一言で父の大事な家臣を失ってしまった。案の定、岩櫃城へ辿りついた一行から事の次第を聞かされた真田昌幸は烈火のごとく怒った。

昌幸「籠城準備で猫の手も借りたい時じゃ、事もあろうに赤沢ほどの勇士をそのようなことで失うとは。情けないッ」

◆兄弟が父から叱責されているところへ、やって来たのは当の赤沢嘉兵衛。死んだと思った嘉兵衛が現れたので一同は仰天。しかし、当の赤沢嘉兵衛はケロッとしている。

嘉兵衛「あの程度の谷へ飛び下りたところで、死ぬような自分ではありませんぞ。ワッハッハッハ」

◆これを聞いた真田昌幸は怒りの鉾先を嘉兵衛に向けた。

昌幸「確かに雁ヶ沢から飛び下りて死ななかったの不思議じゃ。だが、きさま、かかる時節にあたら命をむなしくするような挙に及ぶとは許し難い。顔も見たくないから早々に消え失せろ」

◆昌幸は癇癪持ちだったようである。後に赤沢嘉兵衛は徳川家康が上田城を攻めた折、神川合戦で首級二をぶらさげて昌幸の実検に入れ、帰参を許された。その後も数度の戦功をあらわし、一生のうちに二十五の首級を捕ったと伝えられている。

◆江戸時代になって真田藩士・鎌原綱徳が、嘉兵衛が飛んだという雁ヶ沢について調べている。この一件は信之が隠居してからのことだという説もある。場所も利根川にかかる栂野橋となっている。「この橋から飛び下りる者はおるか」と信之が言うと、「それがしがつかまつる」と赤沢嘉兵衛が飛び下りたという。しかも、「ばかもの」と信之は嘉兵衛を叱っている。壮年の信之がそのような無分別な言動をとったとは思われない。やはり、甲州退き口の折のことであろう。




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