124「甲州の退き口(前)」



山手殿(?―1613)

真田昌幸室。その出自については、菊亭大納言晴季の娘あるいは養女、武田家臣遠山氏の娘など諸説あり。甲斐府中に子供たちとともに人質として留め置かれていたが、天正十年(一五八二)、府中を放棄する武田勝頼によって帰国を許された。真田氏の豊臣氏臣従により人質として大坂城に入ったが、家臣河原右京の手引きで脱出。関ヶ原の合戦後、嫡男信之にひきとられ上田に居住。慶長十八年六月三日没、大輪寺に葬られた。法号寒松院殿宝月妙鑑大姉。

◆真田昌幸の正室、山手殿が京都の公卿出身、しかも菊亭大納言今出川晴季の娘であるというのは事実なのだろうか。山手殿は永禄九年(一五六六)に嫡男信幸を産んでいる。昌幸に嫁したのがその前年で十四歳だと仮定しよう。すると、山手殿が誕生したのは天文二十年(一五五一)ということになる。彼女の父たる菊亭晴季は天文八年生まれであるから、かぞえ十三歳。いやはや若いお父さんである。

◆このほか可能性として考えられるのは、菊亭晴季の父公彦の娘ではないか、あるいは菊亭氏の養女だったのではないか、ということだが、一方の真田昌幸も永禄九年当時は少壮二十歳の足軽大将である。信玄のお気に入りだからといって公卿の娘を奥さんに迎えられたとは思えない。菊亭氏説は有名だが、真田信之の遺言に「正親町三条宰相」の名があることから、生母の実家としてこちらのほうが可能性は高い。あるいは正親町三条家の出身で、菊亭大納言の養女というふれこみで昌幸に嫁いだということも考えられる。ここでは性急な結論は控えよう。

◆その山手殿であるが、天正十年(一五八二)の武田氏滅亡の年には甲斐府中にいた。信幸、幸村ふたりの息子ともども人質として留め置かれていたのである。が、織田・徳川勢が迫る中、府中放棄を決定した武田勝頼によって帰国を許された。夫昌幸はすでに籠城準備のため上州吾妻郡の岩櫃城へ赴いている。昌幸はこの天嶮の城に勝頼を迎えて抵抗するつもりだった。

◆山手殿一行三百人は上州をめざしたが、次第に人数は減っていつしか百人程度になっていた。慌てて府中を出てきたため、糧食も乏しかった。男どもが腹ペコでへたばると、山手殿は女中に指示して鏡笥から用意してきたお弁当を取り出した。

◆元気を取り戻した一行は、三月十九日には一族の故地真田に到着した。が、鳥居峠を越えようという時になって前方から軍勢が迫ってくるのが見えた。家老矢沢は歯噛みして、

矢沢「さだめて一揆の奴輩であろう。御母堂ほか女房衆を抱えてこれを蹴散らすことは難儀なことじゃ」
信幸「母上、われらこれより討死を仕る覚悟。母上御最期のこと心苦しく思います」

◆すると、山手殿は嫡男を前にして言った。

山手殿「この身など惜しからぬ命。そなたは源二郎ともどもこの場を切り抜け、吾妻へ赴き父上の軍と一手となって真田の武運を開くのです。足手まといの母はただ今自害いたしますから、後顧の憂いなど無用なことです」

そして、大ガミと呼ばれる矢沢のオババを呼ぶ。これは矢沢薩摩守の母で、信幸・幸村兄弟の産婆もつとめた女傑である。覚悟をきめた女たちは毅然としているが、真田兄弟をはじめ男たちはたまらず涙にくれる。

◆山手殿は姿勢をただし、玲瓏とした声で辞世を詠んだ。矢沢の大ガミがこれに応じた。

山手殿「五行をば其の品々に返す也心とはるゝ山の端の月」
大ガミ「死出の山月のいるさをしるべにて心の闇を照らしてぞゆく」
山手殿「おお、なかなかじゃのう」
大ガミ「甲府を出た時から考えておったのでございますよ」
山手殿「うわの空であったのは、そのためであったか」

オッホッホッホと二人の女性が笑いあっているうちに、軍勢はすぐそこまでやってきていた。

◆だが、その軍勢は鎌原、恩田などに率いられた吾妻からの迎えであった。山手殿一行はホッと胸をなでおろす。今度は女性たちがどっと安堵の涙。一行は大笹村に宿泊、翌日には無事に岩櫃城へ辿りついた。

◆真田家の女傑といえば、信幸の妻小松殿の沼田城死守が有名だが、この時、山手殿一行の「甲州退き口」もそれに劣るものではない。

◆もし、山手殿が本当に菊亭あるいは正親町三条氏の出身であったならば、一揆の恐怖に脅えながら、子供たちを叱咤しつつ山中を彷徨する体験をした公卿の娘というのはちょっと見当たらないだろう。




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