122「信玄、討ち取ったり!」



高木広正(1536―1606)

長次郎、七郎右衛門、九助、筑後。徳川家康の家臣であったが、永禄六年(一五六三)、三河一向一揆に加担し、主家に敵対。後、帰参。以後、家康に従って、姉川の合戦などに従軍。天正十八年(一五九〇)、徳川氏の関東入部によって、武蔵比企郡、下総葛飾郡で二千石を領する。慶長五年(一六〇〇)、武蔵忍の守備につき、慶長十一年、同地で死去。墓所は広正寺。

◆三方ヶ原の合戦は、少壮の徳川家康に対して武田信玄がいわば「格の違い」を見せつけた合戦であった。が、それ以上に徳川家康が東海一の弓取りとして名を成すきっかけともなった合戦であったろう。

◆伝説などを集めていくと、決して徳川勢が武田軍団にやられっぱなしではなかったことがわかる。たとえば、「家康に過ぎたるもの、唐の頭に本多平八」と言ったのは武田方の武士であるし、夜半になって追撃した武田の兵が崖から落下する話なども伝わっている。また、浜松城へ逃げ帰った家康が城門を開け放った「空城の計」の話なども、おそらくは『三国志演義』の焼き直しであろうが含めることができるだろう。逸話のほとんどは、勝利者である武田勢の苦戦と、敗者である徳川勢の健闘ぶりを示すものだ。

◆ともあれ、主従わずか五騎になって浜松城へ逃げ戻る徳川家康。脱糞したというのはこの時の逸話である。まあ、家康が実際に脱糞したかどうかはともかく、左右を顧みる余裕もなかったことは確かであろう。だが、江戸時代の記録では「東照神君」がパニックに陥ることなどあり得ないのである。

◆敗走中、自分の名を呼ぶ者がいるので、家康がふと横を見ると、高木広正が法師武者の首級を手にしている。大局観など埒外の田舎者である、ひたすら手柄を家康に披露することしか念頭になかったのであろう。だが、家康は広正が手にした法師武者の首級を目にした時、ピカリンコとひらめいたものがあった。

家康「九助、汝はその首を浜松城に持参し、城門にて信玄討ち取ったりと呼ばわれ」
広正「えー。でも、これ信玄じゃないですよ」
家康「かまわぬ。急げ、急げっ」
広正「いいのかなー」

◆家康に命じられて仕方なく、高木広正は浜松城へ先行。城門までやって来ると、

広正「敵の御大将信玄の首、高木九助が討ち取ったゾー」

と、怒鳴った。おー、と城兵たちは沸き立つ。

◆すでに三方ヶ原における敗戦の第一報が届いていたから、不安に思っていた城兵たちも安堵の胸をなでおろす。城へ収容された高木広正はもう城兵たちにもみくちゃ。まるで起死回生のサヨナラホームランを打ってナインに手荒い祝福を受けている野球選手状態。どうやって討ち取ったのかだの、信玄の首を見せろだの、悲壮な籠城戦を覚悟していた浜松城内は一転、ヒーローインタビュー・モード。

◆そこへ息も絶え絶えになって城へ辿りついた家康主従がフラフラと城門を潜った。家老の酒井に命じて城内の篝火を絶やさぬように指示し、城門をことごとく開け放っておくように命じて、自分は城内の騒ぎを尻目に奥へひっこんでしまった。

武士A「いかがいたしたのじゃ、殿は」
武士B「九助によって信玄入道が討ち取られたことを御存知ないのであろうか」

◆そこへ武田の追撃部隊があらわれた。城内は上を下への大騒ぎ。

武士C「待て。信玄坊主の首は九助が討ち取ったのじゃなかったのか」
広正「あー、あれ。あれは実はかくかくしかじか・・・・・・」
武士D「なんだと、てめー。ヌカ喜びさせやがって」

武田勢の面前で、高木広正はお立ち台から引きずりおろされ、朋輩たちに足蹴にされる。

武士E「おのれなんぞは、こうしてくれる!こうしてくれる!」
広正「いたたたた。大殿のご下命でやむをえなかったのだ、勘弁してくれ」

◆この時、浜松城をはるかに望見した武田の追撃部隊を率いる馬場信房であった。天性のいくさ人である馬場は、城内の異様な殺気を感じ取った。

馬場「城方の士気はあがっておる。無闇にとりかけるな」

◆かくして、浜松城は武田勢の蹂躙から免れた。




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