118「へちくわん行状記」



丿貫(?―?)

丿桓、丿観、別貫。京都上京出身の茶人。屋号は坂本屋。曲直瀬道三の姪婿にあたるという。茶の湯を武野紹鴎に学び、山科に居をかまえて奇行をもって知られた。天正十五年(一五八七)、北野大茶会に一席を設け、豊臣秀吉から賞賛され、諸役免許の特権を与えられた。千利休などとも親交があり、侘茶の代表とされる。晩年は薩摩に移り住んだとも伝えられる。

◆カタカナの「ノ」ではない。「丿」と書いて「へち」とよむ。わける、はらうの意味をもっていると言うが、現代ではまず使われることのまれな字であろう。漢字変換できたのが不思議なくらいである。ただそれだけの理由で、今回はヘチクワンという男を取り上げてみたい。

◆天正十五年(一五八七)十月一日、豊臣秀吉による北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)が開催された。茶の湯が好きな者は武士、町人、百姓、貴賤を問わず茶碗ひとつを持って参集せよ、との秀吉の触れに多くの数奇者が集まった。北野神社社殿には秀吉、千利休、津田宗及、今井宗久の四席が設けられ、総勢八百余人に茶がふるまわれた。境内の松原には参集した者たちによって実に千五百あまりの茶室がしつらえている。会場で太閤の注目をひときわ惹けば、類なき名誉ともなるというので数奇者たちも腕によりをかける。

◆秀吉は茶頭の千利休をしたがえてあちこちを気軽にのぞいている。

秀吉「本日いちばんの数奇ものは誰じゃな」
利休「こちらでござります。現在は堺に住まう男ですが、殿下もお気に召すかと」

◆案内されたところには巨大な赤いビーチパラソルが突っ立っている。柄の部分は七尺(約二メートル)、さしわたし一間半あまり(約四.五メートル)のそれを、葦垣で囲んだ趣向であったのを、秀吉はいたく感心したとか。この茶席の主こそ、丿貫であった。

◆丿貫の茶は「強いて茶法にもかかわらず、器、軸をも持たず、一向自適を趣とす」という自由奔放なものだった。手取り釜一個で食事もし、時にはそれを茶碗にも転用して天下の宗匠利休をもてなすにも恥じるところがない。ある時などは、面白い趣向を用意しました、と利休を呼びつける。呼ばれて出かけた利休が潜り戸の前に立ったところ、他の客はもう集まっているらしい。潜り戸の向こうからいくつかのほころんだ顔がのぞいている。「もうみなさまお集まりですよ」「ささ、まいられませ」勧められて、利休が一歩踏み出したところ、踏みしめている地面が突如、沈みこみ、

利休「ああ〜ぁぁぁぁぁ」

・・・・・・丿貫が掘った落とし穴にはまってしまった。

◆穴の底にはご丁寧にやわらかく練った土があったので、利休はさながら肥溜めに落ちたような体たらく。おまけに丿貫は利休に偽りの刻限を知らせてよこしたのだった。泥だらけになった利休が身支度をし直す時間までも考えに入れてあったのである。湯浴みをしてさっぱりした格好で茶席に出た利休を見て、丿貫たちは大喜び。「いや、宗匠の落ちっぷりはなかなかのもの」「穴の底から万歳した格好は笑えましたな」と飛び交う講評。しかし、利休もさるもの、短気をおこしたりはせず、後日、人にこう語った。

利休「いや、みなさん喜ばれて、まことに思いがけない座興となりました。穴の底に敷いてあったのがウンコだったら怒っちゃいますが」

◆だが、本当は利休は丿貫の計略を事前に見抜いていたのだともいう。ウソの刻限が書かれた手紙をもらった時点で、ハハン、これは何かあるなと思ったのだ。出かけて行った利休は潜り戸の前の土が新しいのに気づいた。さてはこれだな、とピンときた。知ってて落とし穴に落ちたというのだ。

利休「だってそうでしょう。わたしが落とし穴にはまってあげなければ、丿貫が他の客を楽しませようとした趣向が無になるじゃありませんか。きっとその日の茶会もしらけたものになったことでしょう。客も主人の心に応じてこそ、茶の道と申せましょう」

◆何だかわかったようなわかんないような利休の言い分である。要するに友人が好意的ないたずらを仕掛けようとした時、黙ってこれにはめられてやるのが粋というものらしい。




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