117「シリーズ長宗我部衰亡史・そして観音様も見放した」



津野親忠(1572―1600)

孫次郎。長宗我部元親の三男。高岡郡津野の領主津野勝興の養子となる。朝鮮出兵で軍功をあげ、「長宗我部元親百ヶ条」の制定にも関与したとされる。慶長四年(一五九九)、弟盛親によって香美郡岩村に幽閉され、翌五年、関ヶ原合戦後、盛親および家老久武内蔵助らによって岩村孝山寺で自害させられた。法号雪庭宗笋。室は三宮平左衛門の女。

◆長宗我部氏の頽廃ぶりをみていくと、暗然とさせられる。とにかくもがけばもがくほど、深みにはまっていく様子がじれったい。

◆長宗我部家は、嗣子信親が九州で戦死した後、四男盛親に家督を継がせようとする元親の反対勢力粛清が相次ぐ。ついには元親死後、成り行きもよくわからないまま石田三成に味方して、ろくに戦闘もしないうちに関ヶ原で敗者の列に連なってしまう。さらにわけのわからないことに、国許へ敗退した盛親がやったことといえば、すでに幽閉中の実兄津野親忠の誅殺である。

◆津野親忠は盛親のすぐ上の兄で、長宗我部家督相続問題で親忠を推す勢力も多かった。しかし、結局、元親の強権が発動された形で親忠勢力は圧殺された。関ヶ原から敗走してきた盛親に、久武内蔵助は耳打ちした。

久武「津野どのをこのままにしておかれては危険でござります」
盛親「おい、津野はわが兄ぞ。何てことを言うのだ」

◆いったんは盛親の反対に遭った久武であったが、「このことが津野どののお耳に入っては大変」と考えた。

◆かくして、岩村に幽閉されていた津野親忠へ、討っ手が差し向けられた。

親忠「何の咎あってわしを謀り、討っ手を差し向けたのか。同胞の兄を切害して、盛親は自分ひとり安穏でいられると思っているのか。天罰たちまち来たりて、おのれもやがてこのようになるだろう。ああ、物はみな限りあるといえども、長宗我部の家もこれまでなり」

◆津野親忠の郎党は、押し寄せる討っ手に「何の咎あっておめおめとお腹を召されることがありましょうや。討っ手に目にもの見せてくれましょう」と息まいたが、親忠はとても助からないと神妙に自害して果てた。

◆現在、親忠が自刃した地には、孝山寺の跡と津野神社がある。孝山寺はもともと霊岩寺といったが、親忠の法号にちなんで改称された。孝山寺跡はお堂がひとつと誰のものともわからぬ墓石群が田の一画に集められている。また、その脇にある津野神社には社殿が存在する。言い伝えによれば、親忠の墓はこの社殿の下にあるのだという。社殿の脇には親忠に殉じた家臣たちの供養塔も建っている。

◆盛親はこの兄の何を恐れたのか。一説によれば、津野親忠は藤堂高虎と親しく、久武内蔵助は「徳川は盛親さまを隠退させてかわりに津野親忠どのに土佐半国なり与える魂胆らしい」という風聞を告げた。真偽のほどはわからない。ただし、長宗我部家改易後、桑名弥次兵衛をはじめ藤堂家に仕官した者は数多い。高虎と親忠の生前の関係をうかがわせる傍証ともいえるかもしれない。親忠には反久武派の信望が厚かったのであろうか。

◆たとえ、盛親が隠退させられ、津野親忠をなにがしかの領主にするという筋書きが実際にあったとしても、それは長宗我部が生き残る数少ない可能性であっただろう。いずれにしても、気の回しすぎとしか言いようのない、久武内蔵助の言を容れたために、盛親は国を失ってしまうわけである。

◆そうとも、知らずに盛親は謝罪のため大坂へ上る直前、家運が開けますように、と柏尾山の観音に詣でた。すると観音堂から十四、五丈に及ぶ白布が立ち上がっている。不思議なことがあるものよ、と盛親主従が見つめていると、それは布ではなく白雲。続いて観音堂から業火がおこり、たちまちのうちに灰燼と帰してしまった。

◆この一件を見て、諸人、「臣下の悪行、主人に帰して、観世音も見放してしまわれた」と悲嘆にくれる。盛親も力なく過酷な運命が待ちうける大坂へと船出したのであった。

◆津野親忠はその領地では名君として尊崇を集めていたらしい。現在、檮原町の三島神社鳥居のそばに朝鮮出兵に従軍した親忠が持ち帰ったと言われるハリモミが植えられており、町の天然記念物となっている。




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