114「シリーズ長宗我部衰亡史・世継評定紛糾す」



比江山親興(?―1588)

掃部助。長宗我部元親の家臣。国親の弟国康の子で、元親とは従兄弟になる。比江山城を居城とし、比江山氏を称した。元親の四国平定戦に従い、阿波国岩倉城主となるが、豊臣秀吉の四国征伐によって比江山へ戻る。天正十四年(一五八六)、長宗我部家の継嗣問題について諫言したが、容れられず、元親の命によって自害させられた。

◆長宗我部家にとって、豊臣政権というのは鬼門であった。四国平定まであと一歩、それも本能寺の変というラッキーにも恵まれ、上方をも脅かす存在になりつつあった。それが、秀吉の急成長によって頓挫。四国攻めによって土佐一国に押し込められ、あげくの果てには戸次川の合戦にかり出されて当主元親は将来を嘱望していた嫡男を失ってしまう始末。

◆嫡男信親亡き今、あらたに後継者を決めなければならない。一門重臣たちが居城大高坂に集まって協議を開いたところ、開口一番、元親が言った。

元親「千熊丸を家督とし、弥三郎(信親)の娘と結婚させようと思う。この議やいかに」

◆戸次川敗戦以後、年に似合わず老けこんでしまった元親は、この頃から急に怒りっぽくなっている。政務も久武内蔵助に任せきりであった。香川親和、津野親忠というふたりの兄を差し置いて、元親の末っ子千熊丸を推しているのが久武であることは一門衆も見抜いている。当然、元親の従兄弟である比江山掃部助親興と同じく甥の吉良左京進親実から反対の声があがった。

親実「『礼』には、同姓を娶らず、その禽獣に近きが為なりとあります。千熊どのを惣領とし、しかも弥三郎どのの御息女をこれに嫁さしめる議は何とぞ御再考願いまする」
親興「親実の申すとおり。そこにおる久武内蔵助の入れ智恵、いらぬお節介でござろう」

◆元親は不快の念をはっきり色にあらわし、席をたってしまった。名指しで非難された久武内蔵助は顔をまっかにしてうつむいているばかり。元親は日頃、家臣の諫言にも憤ることがないよう、謙虚に耳をかたむけていると主張していた。が、今回ばかりは我慢の緒が切れた。

元親「得失を試みんために、方々の意見を徴したというに、なにゆえ、久武を排撃いたすのか」

怒る理由が見つかって、心置きなく感情を暴発できた元親である。一方、家臣たちは「やっぱ、意見するのはヤバイようだ」と一様に口をつぐんでしまった。かといって、家臣たちも元親のせいにはせず、自然、憎悪の鉾先は久武に向けられた。

◆大高坂の城下には、誰がたてたものやら、次のような高札が掲げられた。

梶原が二度のかけして今の世にまた久武と生まれ来にけり

これを聞いた久武内蔵助は、「さては吉良と比江山の仕業だな」と復讐を誓った。奸臣の代名詞・梶原景時にたとえられては、我慢もならない。

◆大高坂城を退いた比江山親興は、主家の衰亡とおのれの最期を予感して比江山城に引っ込んでしまった。諫言をした者たちの罪は問われることはなかったが、やがて家中に吉良、比江山両名を切腹させるべしとの声があがった。無論、火付け役は久武である。間もなく、元親は、中島吉右衛門、横山修理の二名を検使として比江山へ派遣した。

◆検使両名は比江山の邸に着くと、中村吉右衛門が親興の罪状を言い渡した。

中村「今度、世継評定の座において、無礼過言をもって、君臣の法を乱した。その罪かろからず。よって切腹仰せ付けられ、我々共検使を相つとめる」
親興「それがし小智短才の身として、本心を述べたもの。身のほど知らずと思われようが、金言耳に逆らう、とは昔の人はよくいったもの。この上は、潔く腹切って、ご主人の怒りを散じるほかはないようですな」

◆たまらず、比江山家の郎党二名が「これは讒者の所為である」と検使に直訴した。二名の検使も久武が悪いと内心思っているから、居心地が悪い。これを制したのは親興であった。

◆自害するにあたって、親興は落ち着きはらった態度で家臣たちに申し渡した。

親興「われ戦場に臨んで死を専らにして生を求めず。ただひたすら君恩に報いるためである。今日の運命がめぐりきたったことをわしは後悔してはおらぬ。よいか、わし亡き後、かまえて騒動をおこすな」

親興とすれば、おのれの死後、激昂して長宗我部家に対し謀反をおこすようなことがあってはならないとクギをさしたものであろう。

◆家中の下人たちはもとより、検使の二名も親興の言葉にハラハラと涙をこぼす。親興は従容として切腹して果てた。『土佐物語』は比江山親興を評して云う、「その生質厚実にして、仮にも戯談・妖妄の怪しきを言はず、常に学窓に眼をさらせり」と。

◆現在、比江山城跡には親興を祀る比江山神社が建っている。




XFILE・MENU