111「末森・鳥越城攻防戦(後)」



久世但馬守(?―1612)

実名は不詳。佐々成政家臣。越中小出城代などをつとめ、上杉景勝と戦った。天正十二年(一五八四)、羽柴秀吉に抗した成政が前田利家の末森城を攻めた際、前田方の鳥越城を奪う。成政滅亡後、羽柴秀次に仕え、さらに結城秀康に仕え二万石を領すという。初期越前藩政を運営する重鎮となるが、次代忠直の不興を蒙り、慶長十七年(一六一二)、一族とともに殺害される。越前松平家の権力闘争にからんだ処置であったと考えられる。

◆機に臨んで変に応じる、といった戦場での嗅覚だけを比較すれば、おそらく前田利家よりも佐々成政にやや分があったかと思われる。天正十二年(一五八四)、前田方の末森城攻略に失敗した佐々成政は退却中に敵方の隙をうかがっていた。

◆一丸となって佐々勢を押し返した前田方だが、佐々家中にも決して人なきわけではない。前田利家に粘り腰の奥村永福あれば、成政には智将久世但馬守がいる。利家・成政の実力が伯仲していた裏には、彼等を支えた家中の人材もまた拮抗していたと考えるべきであろう。

◆末森の囲みを解いた佐々勢は、津幡城など前田方の支城を威嚇しつつ退却した。翌九月十二日、越中国境に近い鳥越城に目をつけた。この城は利家の将目賀田又右衛門と丹羽源十郎が守っていたが、末森にて前田勢、敗れるという誤報を真に受け、すでに逃亡していたのである。久世但馬守は労せずして一城を手に入れた。退却中にも相手の弱点を探り、隙あらば急襲するという、まさにこの主人にしてこの家来あり、といったところだろう。

◆これを聞いた利家は、末森後巻きの甘く心地よい余韻もいっぺんに吹っ飛んだ。先の勝利は通常、「末森の後巻き」と豪語するほどの決戦ではなく、むしろ、これから続く佐々方との泥沼戦の序章に過ぎなかったのだ。利家は、津幡城の将兵に命じて鳥越城奪回を図ったが、久世但馬の巧妙な防禦によって敗退させられた。

◆十月十四日、利家は自ら兵を率いて、鳥越城へ攻め寄せた。「このような小城、何ほどのことやあらん」と粋がり、力攻めに攻めたてた。久世但馬守は堀下に前田勢が群がっているのを確認すると、兵を指図して火矢、鉄砲を雨に如く降らせた。

◆末森城を落城寸前まで追い込みながら、佐々勢は敗退したのだが、久世但馬守の働きで何とか痛み分けに持ち込んだ。以後、豊臣秀吉の停戦命令が発せられるまで、前田と佐々の間で泥沼仕合が展開されるわけだが、「末森の勝者」前田家は、末森以後のことは語ろうとはしない。ひたすら、「末森城後巻き」は利家有無の一戦であった、というのみだ。末森救援に向かう利家肖像画はこれでもかというほど作成され、加賀藩の宝物蔵にほうりこまれた。しかし、やはり、ここは末森・鳥越両城の攻防戦として扱ってやらないと、佐々主従が気の毒である。

◆のちに久世但馬守を家臣に迎えた結城秀康は「越前を領せらるるの楽、久世但馬を家人にもちたまうこと第一の大望なり」と言ったという。あるいは久世但馬守の召抱えを「越前の襲封、家康の感状」と並ぶ楽しみと喜んだともいわれている。これほどラブコールを送られた部将も少ないだろう。その寵愛ぶりが、ひょっとして陥穽になったのであろうか、久世但馬守は秀康の子・忠直の代に上意討ち(久世騒動ともいう)に遭ってあっけなく滅んでしまうのである。

◆屋敷を包囲された久世但馬守は、下人たちには逃げるように告げた。久世は生前、人づかいが荒かったが、最期を迎えるその時、足軽たちはその命令に服することを拒否した。彼等は屋敷を去らずに久世一族と運命をともにした。




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