104「シリーズ堀一族・名人久太郎の衣鉢」



堀直寄(1577―1639)

三十郎、従五位下丹後守。監物直政の二男(実は庶長子)。堀秀治に属して越後坂戸城に拠り一万石を領す。慶長五年(一六〇〇)、上杉遺民一揆を鎮圧した功により、徳川家康・秀忠より賞される。慶長七年、蔵王堂城に移り五万石を領す。慶長十五年、異母兄直次と対立。これによって大名家の堀氏が改易となり、北信濃飯山城に移され、四万石を与えられ独立大名となる。のち一万石を加増。大坂の陣の戦功によって越後長岡藩主となり、のち村上に移って十万石を与えられた。法名凌雲院殿前丹州太守鉄団宗釘大居士。

◆堀秀治が越前北ノ庄から越後へ転封された時のこと。堀家の名家老で同姓監物直政が「ふすま野」という土地に目をつけた。直政は春日山城を廃してこの地に城を築きたいと考えた。さっそく、堀の与力である溝口と村上はふすま野へ調査をしに向かった。

◆そこへ出羽の湯殿山へ修行に赴くという山伏が道づれとなった。山伏は溝口・村上の両士と同行中、奇怪なことを口にした。

山伏「堀監物がこのふすま野に城を築こうといたしておるようだが、もし事に及べば、五年のうちに監物の子孫は断絶するであろう。ご両人はおそらく堀家の方々であろう。戻って監物どのに申し上げるがよろしい」

◆溝口・村上の二人は戻ってこのことを告げたが、堀直政は「ふすま野」築城を強行し鍬初めを行った。程なくして直政は突然病にたおれ、ほどなく死去した。死の直前、雅楽助直次と丹後守直寄の二人の子供を枕頭に呼んだ。直政は二子に「人の訴訟をとりもつな」「自分の加増は五年間辞退せよ」「主君に家臣への知行宛行を奨めるな」「兄弟仲たがいをするな」など数箇条の遺命を書いた誓紙に連署させた。誓紙の一通は自分の棺に、もう一通は焼いて二子に呑ませた。

◆しかし、直政死して三年後、若き主君堀忠俊が浄土宗と日蓮宗の宗論を行わせ、浄土宗の僧侶を斬るという事件が勃発した。何だか信長の「安土宗論」の真似のようだが、子の時の結果は逆で浄土宗が勝ったらしい。越後は親鸞の聖地でもあるから何やら宗教統制の臭いがしないでもない。これを幕府に訴えたのが直寄で、結果的に堀忠俊と直寄の庶兄直次は改易・追放処分となった。直次は父直政の遺命である「人の訴訟をとりもつな」に違反したのであった。もちろんこの事件の裏には、雅楽助直次と丹後守直寄の確執があった。嫡統でかつ兄は直次のほうであったが、実は直寄のほうが年上でしかも幕府のおぼえもめでたいことも事情を複雑にしていた。

◆さて、大名家の堀氏、そして家老堀氏は断絶となったが、幕府に訴えた直寄はひとり生き残った。秀吉・家康にもおぼえめでたく、駿府の大火ではいちばんにかけつけた功績もある。直寄は間もなく独立大名となり、信濃飯山を経て、旧領というのは正確でないが、かつて堀一族が領した越後へ返り咲くのである。

◆彼にはこんな逸話が伝わっている。直寄の小姓の中に元服願望の少年がいた。しかし、直寄は一向に許可してくれないので少々むくれ気味の日々。気持のほうもゆるみ気味。ある時、お勤めに飽きたところへ、座敷にチョウチョウが舞い込んで来た。少年は戯れにチョウチョウを捕らえようと廊下を追いまわしはじめた。「丹後守ともあろう余が、そなたを逃がすものか」と叫んでチョウチョウを追い詰めたところへ、運悪く主人の直寄と鉢合わせ。

直寄「持ち場を離れたばかりか、座敷の中でチョウチョウを捕るとは沙汰のかぎりじゃ」

◆少年はこっぴどく油をしぼられたが、直寄は「そなたが丹後守云々と申したは、わしを頼もしく思い、武勇に励んでいるからであろう。そうでなければ、戯れの一言に口端にのぼろうか」と褒め称え、小姓の元服を許すことにした。

◆大名堀氏は没落したが、名人久太郎の衣鉢はこの直寄に継がれたというべきであろうか。


*補足調査
堀直次は文書の署名では「直知」であるそうです(『上越市史』別編5)。(X-file特別捜査官:主馬)

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