103「シリーズ堀一族・名人の影になった男」



堀直政(1547―1608)

三左衛門、監物。奥田直純の子。母は堀秀重の姉。従兄弟にあたる堀秀政に属し、長篠の合戦、山崎の合戦、賤ヶ岳の合戦等で戦功をあげる。天正十三年(一五八五)、豊臣秀吉から堀姓を許される。天正十八年、秀政の急死により幼嗣子秀治を補佐。慶長三年(一五九八)の越後移封時に沼垂郡において五万石を領し、三条城主となる。慶長五年、越後国内の上杉遺民一揆を鎮圧し、翌年、上杉領佐渡の接収にあたる。京都高台寺に葬られ、のち高野山に改葬。法名千手院殿前城門郎傑山道英大居士。

◆上杉氏の居城であった春日山城の城域には、監物堀という遺構がある。今回の主人公堀監物直政によって築かれたものだという。主君堀秀治よりも才気煥発の家老がとりしきっていた堀家の事情は、上杉景勝と直江兼続のそれに似た面もある。直政は豊臣秀吉や徳川家康からも信頼されいたし、秀政なきあとの堀家の治績をあげた功労者でもあった。

◆しかし、直政は幼君秀治をよく補佐して、これをないがしろにすることはなかった。彼は亡き従兄弟であり主君でもあった秀政と若い頃に約束をかわしていたのだ。

「今は戦国の世であるから、いくさに励むことは勿論のことだが、小身から大身になるまでには心きいた家来がいなければ無理というもの。されば、これより先に功をあげたほうが主となり、一方はその家来になって、ともに堀の家を興そうではないか」

◆なんだか、北条早雲と御由緒七家の約定に似たエピソードであるが、案外、このような約束は頻繁に行われていたのではないだろうか。そんなわけで、「名人久太郎」と謳われた秀政のほうが先に出世し、直政は約束どおり忠実にこれに仕えたのである。

◆豊臣秀吉は、もちろん名人久太郎こと堀秀政の重用していたが、その家臣である直政も高く評価することを忘れなかった。秀吉の人物評が残っている。有名だが次に引用しよう。

「陪臣にて、直江山城、小早川左衛門、堀監物杯は天下の仕置をするとも、仕兼間敷者なり」

◆もっとも上杉と堀とは、蒲生氏をも含めた越前→越後→会津→下野という玉突き転封の際の「年貢米持ち逃げ事件」で仲が悪い。越後国内の年貢を半年分先取りして持ち去ってしまった上杉に対して堀家は抗議した。「国替えの際、年貢米を半分収公するのは通例である」と。が、上杉は返還に応じない。「蒲生も会津を去る時、一年分の年貢を徴収していった。だからわれらも越後で徴収した年貢米を持参したのである。直政が旧領越前で徴収してこなかったのがいけないのだ」と直江兼続からケチョンケチョンに言われている。また、秀吉は「陪臣で天下をとれそうな者は三人いる」と言って、上杉家の直江兼続、毛利家の小早川隆景、龍造寺家の鍋島直茂の名をあげている。前述の「天下の仕置ができる者」に名があった堀直政が欠け落ちている。もっとも他の者たちも天下がとれる三条件「勇気・大気・智恵」のうち二つしか満たしていないのだという。直政はおそらく一つしか満たしていないために除外されたのだろうか。

◆それはともかく、戦国時代の終焉ともいうべき小田原攻めの陣中において堀秀政が三十八歳という若さで急死するのも、生き残った直政が秀吉から「天下の仕置を預けることができる男」と評価され、泰平期に移ろうとする頃に脚光を浴びはじめたのも象徴的である。

◆家老・堀家は直政の子も出来がよく、主君がそれを妬んだため、ついに御家騒動にまで発展する。江戸時代には、ついに直政の家老・堀家は大名にまで累進し、かわって秀政の大名・堀家は凋落してしまう。それも、直政が秀政との約束を忠実に守ったがゆえ、なのである。皮肉なものだ。

◆そのせいであろうか、直政をめぐる醜聞ものこっている。直政が越後にいた頃、ふすま野というところに築城しようとした。この時、通りかかった山伏は「ここに城を築けば、五年のうちに監物の家は絶えてしまうであろう」と言った。直政はそれを無視して築城を強行したため、ほどなく病死してしまった。あるいは、関ヶ原前夜、幼君秀治に言い含めて石田三成に密書を書かせ、それを中途で奪って家康に送り、越後の主になりかわろうとした云々。いずれも妄説には違いない。




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