102「シリーズ堀一族・名人久太郎と人は呼ぶ」



堀秀政(1553―1590)

菊千代、久太郎、左衛門督、従五位下侍従。秀重の男。はじめ美濃斎藤氏に仕え、のち織田信長に従う。越前一行一揆や荒木村重討伐に戦功をあげる一方、蔵入地の奉行をつとめるなど信長側近として頭角をあらわす。天正九年(一五八一)、近江長浜城主となる。翌年、武田攻め、ついで中国出陣中の羽柴秀吉を救援。本能寺の変後、秀吉とともに山崎の合戦で明智光秀を討った。以後、賤ヶ岳の戦い、小牧長久手の戦い、紀州攻め、九州攻めに参加。天正十三年、越前北庄城主となり北国支配の要となる。天正十八年、小田原攻めの陣中で病没。法名高岳道哲東樹院。北庄長慶寺に葬られ、のちに春日山林泉寺に改葬された。

◆堀秀政がもし三十八歳という若さで急死することなく、豊臣政権の支柱となっていたならば、おそらくは百万石級の大大名にまで出世し、末は五大老にも列したのではないだろうか。小牧長久手の合戦ではただ一人、徳川勢を破っているし、何よりもあの信長に側近く仕えて重用されただけでも大したものだと思えてしまう。その後の帰趨までをとやかく言うことはできないが、同じく信長に気に入られていた蒲生氏郷と年齢も近く、出世のスピードもどっこいどっこいであった。氏郷のほうは、会津九十二万石にまで累進している。

◆その秀政を、世間は「名人久太郎」とか「名人左衛門」などと呼んだ。何でもそつなくこなすイメージもあっただろうが、とりわけ「人づかい」が得意であったという。

◆戦陣にあって、風雨にみまわれた夜などは、秀政は部下に警戒を厳重にせよ、と言いつけ、さらにこう続けた。

秀政「こういう晩には盗賊が武具や兵糧を奪いに来るやもしれぬ。だが、盗賊ごときに奪われるのは残念だから、今晩、わしが泥棒に入るからそう思え」

殿様に盗まれては、それこそ大失態である。堀家の家中は異常なほどの厳戒体制を布いたため、野盗などの被害には遭わずに済んだが、他家の陣ではことごとく被害に遭ったという。秀政の座右の銘は「油断」であった。この二字を額に入れて架けておき、日々、戒めていたということである。

◆こういう堀家であるから、人材活用にもそれなりの教育体系が存在する。まず、奉公して一ヶ月は主従の親睦を深めることにある。朝夕相伴をさせて、秀政は相手の言動をじっと観察するのである。次の一ヶ月は、奏者をさせる。この仕事ぶりの評価が知行に反映される。いわゆる初任給というわけだ。

◆それでも、ドロップアウトする者は出てくる。中には気の短い大名もいて、「奉公構え」にしたりする。こうなると、飛び出た者は再仕官ができなくなる。黒田家を退散した後藤又兵衛などはこの「奉公構え」に遭ったため、居候先の細川家にもいられなくなってしまい、ついに大坂城へ入城する派目になる。しかし、秀政は他家へ仕官するのは自由だと言って衣服や路銀を与えて送り出してやった。そのため、他家へ行った者の中にも秀政に心寄せる者が多かったという。

◆それでも贔屓や妬みがあったのだろう。ある時、秀政の城下に「堀左衛門殿悪しき條々」と大書した高札をたてた者がいた。全部で三十三ヶ条もある。家臣たちは驚いて「犯人をつきとめて懲らしめてやりましょう」と秀政に言う。が、秀政は件の高札の写しをしげしげと眺めている。

秀政「いや、それには及ばん。このような諫言をわしにしてくれる者はほかにいない。天の与えと言うべきか。ありがたやありがたや」

そう言って、秀政は錦の袋にその文言をいれ、箱にしまって大切にしておき、折にふれては自らの行いの戒めにしたという。今でいうならば、クレーム対処といったところか。

◆秀政の家中にいつも泣いているような顔つきの男がいた。瞳はいつも涙でうるんでおり、眉もひそめている。朋輩たちは何となく陰気臭くて、秀政に「暇を出させては」と進言した。あのような者がおっては他家から笑われてしまうと思ったのだ。

◆だが、秀政はとりあわなかった。

秀政「おまえたちは急に泣けと言われて泣くことができるか? あの男は法事や葬儀の使者につかわせば適任ではないか」

◆一説に秀吉は、北条氏を滅ぼした後、関八州を秀政に与えるつもりだったという。秀政の死は貴賤を問わず惜しまぬものはなかった。




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