101「サンタ・モニカと黄金の日々」



日比屋了珪(?―?)

本姓福田氏。洗礼名ディエゴ。堺櫛屋町に住んだ貿易商。茶人としても著名。天文十九年(一五五〇)十二月、ザヴィエルを自邸に迎えた庇護した。永禄四年(一五六一)、宣教師ヴィレラの堺布教にあたって邸内に教会を建て、息子ヴィセンテ了荷のすすめで受洗。天正九年(一五八一)には海賊に襲われたヴァリニャーニを手勢三百をもって救出している。豊臣秀吉のキリシタン弾圧により、次第に凋落。慶長五年(一六〇〇)頃までの生存が確認できる。了慶の死後、日比屋は没落した。

◆東京都日比谷区と日比谷了珪(了慶とも書くが本人の署名に従っておく)とは関係があるのだろうか。答えは直接的な関係はない。が、間接的というか「ひびや」の意味には関係がありそうだ。日比谷区の「ひび」とは海苔の養殖も用いる枝つきの竹のことだという説がある。了珪はひょっとしたら、海苔などの海産物を商っていたのではないだろうか。

◆かつて大河ドラマ「黄金の日々」に日比屋了珪の娘モニカが登場した。演じたのは故・夏目雅子である。城山三郎の原作では小さい扱いだったが、ドラマでは大きくクローズアップされていた。はじめは清楚でセリフも少なかったが、やがて石川五右衛門(根津甚八)に事もあろうに教会内でオルガンを弾いているところをレイプされてしまう。

◆このシーン、結構ショッキングだったのだが、さらに凄いのは、犯されたモニカが今度は逆に五右衛門にストーカーとしてつきまとうようになる。次第に壊れていくモニカがコワイというか哀れだった。結局、苦しめられた五右衛門が最後はモニカを縊り殺してしまうのだけれど。

◆さて、史実のモニカもやはり受難に遭っている。彼女の家は堺の豪商日比屋。父は了珪。一家そろって熱心なキリシタン信者で、邸内には瓦葺三階建の立派な教会堂がある。家族の中でも特に信仰の篤いモニカはここに入り浸っている。

◆日比屋了珪は悩んでいた。娘モニカの婚約者のことである。相手は親戚にあたる宗井の息子で宗札という者だった。互いの親が取り決めたものだったが、今になって了珪は後悔していた。相手の宗札が異教徒であるため、モニカが彼を寄せつけない。こうした父娘の態度を許婚者の宗札は敏感に察し、強引に約束の履行を迫った。

◆宗札はモニカが祝日に宣教師(おそらく了珪に招かれたガスパル・ヴィレラであったろう)のところで出かけるところを狙うに違いない、と考えた了珪は護衛を増やして、不慮の事態に備えた。モニカには表通りを歩かせないようにし、やむなく宣教師のもとへ赴く際には裏木戸から外に出した。

◆ところが護衛の緊張がゆるんだ数ヶ月後、宗札は往来で白昼堂々、モニカをさらい、自邸へたてこもった。彼女はわずか五軒先の宣教師の家へ出かける途次であった。モニカ略奪を聞いた了珪は兵たちを集め、宗札の家をとり囲むと同時に彼の父宗井を人質にとった。両者が互いに人質をとって対峙したまま数日が過ぎた。

◆この間、モニカは宗札から刀をつきつけられて脅されたりしていたが、毅然として相手をつっぱねた。

モニカ「わたくしは刃物など恐ろしいとは思いません。宗札さまは何度もわたくしののど元へ刃を向けられましたが、それはデウス様への冒涜にほかなりません。あなたはもうデウス様の恩寵がわたくしの上にあるということを認めるべきでございます」

◆こうして、人質が誘拐犯人を説得したばかりか、その妻になることを承諾して事件は落着した。宗札はデウスの恩寵とモニカの勧めによって「短期間に五畿内における最良のキリシタンとなるに至った」という。要は、モニカが信仰にばかりいれあげて、自分のほうをちっとも見てくれないことに焦れた宗札が騒動をおこしたということなのだろうか。

◆そのモニカの生涯は短いものであった。彼女は宗札との間に一男一女をもうけたが、二度目の出産の時に発病した。死の床で彼女は家族のうちただひとり洗礼を拒んでいた母に向かってハンスト決行を宣言し、「わたくしが死んだら、了珪の娘は実の母親に殺されたと人は噂しますよ」となかば脅すようにして受洗させた。いやはやとんでもない娘である。

◆モニカが病床に臥していた時、二十二歳であったという。彼女は天文十八年(一五四九)の生まれであるというから、その死は元亀年間(一五七〇〜一五七三)のことであったろうか。モニカの実名はもとより伝わっていない。その洗礼名は聖アウグスティヌスの母の名からとられている。




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