097「シリーズ明智遺臣団・神に槍をつけた男」



安田国継(?―?)

作兵衛、天野源右衛門。明智光秀に仕え、「明智三羽烏」などと称された。天正十年(一五八二)六月二日、本能寺急襲には京都進入の先鋒大将をつとめた。山崎の合戦で敗走し、のち天野源右衛門と改名して羽柴秀勝、羽柴秀長、蒲生氏郷などに歴仕。豊臣秀吉の九州平定後、立花宗茂に仕え、朝鮮に渡り碧蹄館の合戦に戦功をあげる。戦後、立花家を致仕し、寺沢家に八千石で仕えた。『天野源右衛門覚書』を著す。

◆「彼はもはや、自らを日本の絶対君主と称し、諸国でそのように処遇されることだけに満足せず、全身に燃え上がったこの悪魔的傲慢さから、突如としてナブコドノゾールの無謀さと不遜に出ることを決め、自らが単に地上の死すべき人間としてでなく、あたかも神的生命を有し、不滅の主であるかのように万人から礼拝されることを希望した」と宣教師ルイス・フロイスは「彼」について記している。ナブコドノゾール(ネブカドネザル)とは紀元前のバビロニアの王の名である。

◆彼、織田信長が宣教師のいうように、神たることを望んでいたのだとしたら、安田国継はその神殺しに加担した男である。いや、加担どころか一番槍をつけた男であった。安田国継は明智光秀の謀反の際、先鋒として京都へ進出し、本能寺の戦いで信長を槍で傷つけている。

◆このクーデターでもっとも活躍したのは、作兵衛こと安田国継と古川九兵衛、箕浦大蔵丞の三人であったという。世に「明智の三羽烏」とも称される。当時も手柄の一番は自分だと言い張っていたが、やがて明智家は滅亡。三人は堂々と表を歩けない身の上となった。

◆しかし、この三人は武勇もすぐれていたので、やがて諸家に召抱えられることになった。三人は数年後、京都で再会。はからずも同窓生にあったごとく、昔話に花が咲き、またまた誰が一番手柄かで言い争いになった。その時、旅宿の外が騒がしくなった。捕り物らしい。

作兵衛「ちょうどよい。狼藉者を誰がつかまえるかで、本能寺一番手柄が誰であるか証明しようぞ」
九兵衛「ケッ、のぞむところじゃ」

◆真っ先に二階から飛び下りたのが作兵衛。続いて古川九兵衛。箕浦大蔵丞はといえば、足の古傷のせいで少し出遅れた。ところが、降りようと思ったら段梯子がない。先に下りた二人のいずれかがはずしてしまったものらしい。ところが、狼藉者は作兵衛と九兵衛に追いまわされて、旅宿の二階へ逃げて来た。「待ってました」と箕浦大蔵丞が組み付いて狼藉者を退治してしまった。

大蔵丞「あはは。本能寺一番手柄はかく申す箕浦大蔵なり」
作兵衛「くそッ。あの折も織田右府に拙者が一番槍をつけたのに、逆に右府に一喝をあびせられて、ひるんでしまった。われながら詰めが甘い」

◆この頃、安田作兵衛国継は天野源右衛門と名を変え、立花宗茂に仕官していたが、後年、寺沢家に移った。理由は朝鮮における「碧蹄館の戦い」で一番槍の功を十時連久に奪われたからだという。十時は千石、作兵衛は二千石を貰っていた。給料を倍ももらっていながら、後れをとったことを恥じたらしい。

◆あるいは「あいつは織田右府を殺した」と後ろ指さされることもしばしばであったから人間関係にも悩んでいたのかもしれない。彼は本能寺で森蘭丸に槍で腕を突かれた。「冬になると今でもその傷が疼く」と彼は言っている。また『武将感状記』には蘭丸に溝へ突き落とされたという話がみえる。事実かどうかはわからない。のちに仏門に帰依し、淨泰寺に入った。信長を突いた槍は同寺の宝物として伝えられていたという。

◆作兵衛の末路には異説もある。作兵衛は頬に腫れ物ができて、これに苦しめられた。琴の糸で締めて肉腫をちぎっても、病巣は癒されなかった。肉腫をちぎること三度に及んだというが、とうとう四度目にはあきらめて自害してしまったという。

◆世間では、作兵衛が織田信長という英雄を殺した報いをうけたのであろうと取り沙汰したと江戸時代の随筆『翁草』は伝えている。病魔にとりつかれたか仏門に入ったか。どちらにせよ、神を殺した男に栄達の門は開かれなかった。




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