096「シリーズ明智遺臣団・おれなら止められた」



山崎長徳(1552―1620)

長鏡、小七郎、庄兵衛、長門守。閑斎と号す。朝倉義景に仕え、主家滅亡後は明智光秀に属す。天正十年(一五八二)、本能寺の変の折、二条御所襲撃に加わる。山崎の合戦で敗退し、越前へ帰国。柴田勝家の家臣佐久間安次に従って賤ヶ岳の合戦に参加。戦後、前田利家に仕える。慶長五年(一六〇〇)、大聖寺城を攻撃し、戦功により一万四千余石を領す。前田利常に従って大坂の陣に従軍。元和六年(一六二〇)十一月に没す。

◆老人は気軽にインタビューに応じてくれた。

山崎閑斎「いやあ、お話するようなことは何もござらん。とにかくわしの知らないところでどんどん話がすすんでいって、信長さまを討ったあとになって同僚の話を聞いて、そういうこと(謀反)になったらしい、と」

◆天正十年(一五八二)六月二日未明。京の都を覆う暁闇は、一万数千の武装集団をその懐に招じ入れた。各方面に軍団を派遣し、畿内は真空状態となった。京都本能寺にわずかな供回りを連れただけの織田信長が宿泊していた。そして、真空地帯と思われていた畿内に唯一、万を超える軍団を擁している男がいた。明智光秀である。

明智光秀「敵は本能寺、織田信長なるぞ」
斎藤利光「今日よりわが殿は天下さまとなる。足軽雑兵にいたるまで勇み候え」

・・・・・・と、時代劇ならばおなじみの場面であるが、どうもそんなことはなかったらしい。

◆否やはない。光秀の思いはギリギリの時まで、ごくわずかな近臣にしか明かされなかったのである。諌止するいとまなどはおろか、事の成否を吟味する余裕さえなかった。いや、近年発見の史料「本城氏覚書」によれば、本能寺に突入するまで討つ相手が信長であるとは知らなかったという有様だ。

山崎長徳「ちょっと待て。わが軍は西にむかうのであろう。なぜ、入京するのじゃ?」

◆だが、光秀は信長を討ったまではよかったが、中国から兵を返した羽柴秀吉によって山崎の合戦に敗れ、滅び去った。この間、わずか十一日。山崎の合戦に明智方として参加した山崎長徳にしてみれば、あれよあれよという間のことだったろう。おまけに故郷越前へ逃げ戻り、柴田勝家の軍に投じた結果、賤ヶ岳合戦でまたもや敗れるというオマケつき。とうとう最後までわけのわからない流れに身を任せてしまった感じ。

◆あれから三十数年後。幸い柴田方から羽柴に鞍替えした前田家に再就職がかない、閑斎と号した山崎長徳は、加賀百万石の領主前田利常に従って、旧主光秀の仇である秀吉の遺児豊臣秀頼を討つべく、大坂城攻めに従軍していた。

◆前田利常はのばしたハナゲを風にそよがせながら、戦況を望見していた。折しも、城方の真田幸村が拠る出城「真田丸」から鉄砲が撃ちかけられてきた。その勢いたるや前田本陣まで銃弾が飛んでくるほどで、近習たちは利常の身を気づかって、「丘の後へ陣をお引きくだされ」と進言した。

◆ところが、利常は返事をせずに戦況をじっと眺めているばかり。兵を引くのは恥じと思っているらしい。近習たちが弱りきっているところへ、重たい甲冑のせいでヨタヨタした足どりで山崎閑斎が出て来た。

山崎閑斎「殿。冷たい風が出てきました。お風邪を召しましたら、これから始まろうという一大合戦に差し障りが出ましょう。どうぞ、山の陰へお入りくださいませ」
前田利常「おーお。そうじゃの。グシュ。冷たい風のせいで甲冑が冷えてエラくきついわ。どれ、本陣をさげるよう命ぜよ」

◆早くも垂れてきた鼻水を吸ってヘタ〜ッとなったハナゲを唇の上に貼りつかせながら、利常は立ち上がった。近習たちは「さすが、閑斎どの。年の功」と大喜び。

山崎閑斎「あの時、こういう諫言の仕方ができていればなあ。あの暴挙は避けられたかもしれんなあ」
――どうやって、光秀どのの謀反を制止できたんでしょうか?
山崎閑斎「ときはいま、鼻がしたしる五月かな」




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