東禅寺勝正(?―1588)
右馬頭。出羽国尾浦城主。最上義光の家臣。庄内の在地勢力である武藤氏を討ち、尾浦を領したが、武藤氏の家督継承を主張する越後の本庄氏と抗争。天正十六年(一五八八)、兄義長とともに庄内に侵攻した本庄繁長と十五里ヶ原で戦い、敗れる。
◆正宗といえば名刀の代名詞のようなもので、子供の頃買ってもらった塩化ビニールの玩具の刀にも「正宗」という文字がかたどられていたのを記憶している。エンジンに当りはずれがあるように、刀にもやはり上作というものがあるらしく、その中でも「本庄正宗」と呼ばれる一振りは本阿弥光悦が「正宗の中でも上作にて、天下第一」とお墨つきをつけたことで有名だ。この「本庄正宗」の持主は本庄越前守繁長。越後の上杉謙信・景勝の二代に仕えた猛将であった。
◆本庄繁長はもともと美術品として刀の価値などはあまり重視しなかったらしく、浪人生活で手元不如意となった際、正宗を売ってしまった。買ったのは徳川家康である。家康から十男頼信(紀州徳川氏)に与えられたという。江戸時代、紀州家の家宝として伝えられていたが、明治後は皇室御物となっている。
◆だが、「本庄正宗」はもともとは本庄繁長の差料ではなかった。敵から奪った戦利品だったのである。
◆天正十五年(一五八七)、出羽国庄内地方を手中にするべく山形の城主・最上義光の家臣東禅寺義長が在地領主武藤氏を討った。この東禅寺義長の弟勝正こそが「本庄正宗」と呼ばれる逸物の所有者だったのである。最上氏の庄内進駐によって勝正は尾浦城主となった。一方、隣国越後の本庄繁長は、庄内の武藤(大宝寺)氏の後継におのれの第二子を養子として送り込んでいた。が、その子は今度の政変によって東禅寺兄弟によって越後へ追われていた。
◆翌天正十六年の夏、出羽庄内の帰属をめぐって本庄繁長と最上義光が鉾をまじえた。これが十五里ヶ原の合戦である。尾浦城を守っていた東禅寺勝正も従軍した。最上勢三万に対して本庄勢三千と軍記は伝える。結果は最上勢が多数の死傷者を出してまさかの大敗。兄義長も討たれ、ただ一騎となった東禅寺勝正は味方の首を片手に本庄氏の本陣深く入り込んでいた。このままおめおめ山形へ敗走するのも無念と思い、敵の大将と刺し違えるつもりで敵陣へ潜行したのである。頼みは名刀正宗の一腰。
勝正「御大将はいずれに。いざ実検に供さん」
下馬して味方をよそおいつつ、勝正は中央の床机に腰掛ける人物目指して小走りに近づいた。明珍作といわれる甲冑に身を包んだこの人物こそ実は本庄繁長であった。
◆だが、本庄繁長とおぼしき人物に近づいた時、左右の者から待てと制止の声が飛ぶ。それには構わず、首を捨てた勝正が抜刀し、繁長に襲いかかる。不意をつかれた繁長は初太刀をかわしたものの、切っ先を冑に受ける。
◆正宗対明珍とは、美術愛好家が聞いたら顔面蒼白になりそうな組み合せである。本庄繁長がかぶっていた「明珍」の冑は室町末期から隆盛した甲冑師一派の作によるところからの呼称である。この時の繁長の甲冑の素性はそれ以外に伝わっていない。
◆勝正が振り下ろした正宗は、狙いたがわず本庄繁長の冑に当ってはね返された。態勢を崩した勝正は剛力を謳われる本庄繁長によってついに首をとられる。その後、冑を調べてみると、正宗の切っ先がくいこんだ痕があったという。
◆勝正の首級は本庄繁長によって主君・上杉景勝の実検に供された。その際、相手の差し料が正宗であることと知り、あらためて上杉景勝から本庄繁長へ褒美として下賜された。さらに後になって、この正宗は「本庄正宗」として天下に知られるようになるのである。
◆それにしても、なぜ出羽の国の一部将が、本阿弥光悦をして「正宗の中でも上作のひとつ」と絶賛するほどの名刀を保有していたのであろうか。その名刀に「東禅寺」の名が冠されれることがなかったように、謎は謎のまま残されている。