086「志賀の辛崎」



新庄直忠(1542―1620)

刑部左衛門、東玉斎。新庄直政の二男。兄は直頼。八歳の時、父直政が戦死すると家臣に擁せられ、新庄城に拠った。足利将軍家に仕え、唐崎を領す。のち織田信長・豊臣秀吉に従った。文禄元年(一五九二)、小西行長らとともに朝鮮へ出兵。近江伊勢の両国で一万四千余石を領し、近江国における豊臣家直轄領の代官となった。関ヶ原合戦後、領地を没収されたが、徳川家康から坂田郡柏原において知行を安堵された。大坂の陣では徳川方につき、近江坂田郡の幕領を支配した。

◆明治初期、京都の名勝嵐山を訪れた大久保利通はその荒廃ぶりに愕然としたという。維新たけなわの頃、志士活動中、幾度となく訪れた地であったが、土地の人間に聞くと、幕府が健在であった頃はその風光明媚を保存する資金が出ていたという。徳川氏が倒れて、その後援もなくなり、嵐山は次第に荒れ果てていった。大久保はこの時、はじめて行政と名勝の関わりを知ったという。

◆その京都の隣り、近江国で大久保同様、名勝の荒廃を憂えている男があった。時代も大久保の頃より三百年ほどの前のこと。織田信長の延暦寺焼き討ち後、坂本城主となった明智光秀である。
この時、光秀が詠んだという歌、

われならで誰かはうゑんひとつ松こころしてふけ志賀の浦かぜ

というのが伝わっているが、果たして本当に光秀の作であるかどうかはわからない。

◆明智光秀が山崎の合戦で敗死してから九年後の天正十九年(一五九一)九月のこと。豊臣家の代官となった新庄直忠が新しい松を植えた、と『辛崎の松の記』(青蓮院宮尊朝法親王)には記されているそうだ。じゃあ、光秀が植えた松は排気ガスなどの公害もなかった時代に、はやくも九年後には枯れてしまったのか、と考えたくなる。それとも「逆臣光秀の痕跡を残すな」といわんばかりに引き倒されてしまったものか。いずれにしても、天正十九年に「ニュー辛崎の松」が植えられた際、新庄直忠が次のような歌を詠んだという。

おのづから千代も経ぬべし辛崎のまつにひかるゝみそぎなりせば

これも前出の光秀の歌同様、確実とは言えない。ただ、何となく光秀の場合は自領に名勝があることを誇らしげに考えている節が「われならで」の歌に感じられる(ゆえに後世の作とも考えられる)が、直忠の場合はただ純粋に万葉以来の名蹟の保全に心を砕いたのではないか、と思われなくもない。直忠の歌の中にある「みそぎ」とは、古来、賀茂斎宮が辞任する際に辛崎において「祓(はらえ)」が行われたことによる。地元出身の直忠なればこそこのようなことも周知のことであったろう。

◆辛崎は唐崎、韓崎、可楽崎とも書く。琵琶湖の西岸の地名で現在の大津市に相当する。かつてここには大津宮があった。「辛崎の松」の辛崎は近江八景の随一(唐崎の夜雨)であった。近江八景は明応九年(一五〇○)に関白近衛政家が中国の瀟湘(ショウショウ)八景をまねてつくったものだから、光秀の頃からたかだか七十年ほどしかたっていない。しかし「万葉集」には「志賀の辛崎」を詠んだ歌がいくつかある。

楽浪の志賀の唐崎幸くあれど大宮人の舟待ちかねつ

これは柿本人麻呂の作だ。楽浪は「さざなみ」とよむ。
松尾芭蕉も「辛崎の松は花より朧にて」という句をよんでいる。そもそもこの地に最初の松はいつ植えられたか定かでないが、伝承では天智天皇の頃とも推古天皇の頃ともいわれている。今も何代目にあたるのかは分からないが、唐崎神社に松が植えられている。琵琶湖をなぞるR161沿い、坂本のやや南に位置している。

◆近衛政家がさだめた「近江八景」も近年はそのおもかげを残すところなくなり、あらたに昭和二十四年(一九四九)、「琵琶湖八景」が設定された。今やその新八景の景観も開発の波に曝されている。

◆人は自然をありがたがる、風光明媚をありがたがる。しかし、その風景のほとんどは人間の手が入った「人工の自然」であることを忘れてはならない。時代が変わっても人をひきつけてやまない土地がある。そうしたところへ簡単に出かけて行ける時代に我々は生きているが、本当はその場所へ行きたい行きたいと念願している時こそが、いにしえの人々の思いとも一脈通じている時間なのである、と思う。




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