084「わが名はウルフ」



品川大膳(?―1565?)

三郎右衛門、たら木狼之介、勝盛。毛利元就の部将益田越中守の郎党。永禄八年(一五六五)、元就の出雲遠征に従い、富田城を包囲。その間、尼子方の山中鹿介と一騎討ちを挑み、敗れて殺されたという。

◆戦国時代には実に妙な名前が頻出する。骨皮道賢などはその嚆矢といえるかもしれない。見本市ともいえるのが「尼子十勇士」であろう。江戸文化爛熟期の作『南総里見八犬伝』にも出てきそう(実際、オクリオオカミノスケイデタカという名も登場する)な奇天烈な名前が揃っている。それらの多くは軍記ものが中心なのでしっかりした史料的裏付けはほとんどとれないのだが、ぜんぶウソと決めつける理由もまた見当たらない。彼らの多くは強烈な自己顕示欲に突き動かされた足軽である。

◆たら木狼之介勝盛。「たら木」とは鹿が春になると「たらの新芽」を食べて角を落すことに由来する。狼之介はいわずもがな。「鹿に勝つのは狼」というわけである。そして勝盛は山中幸盛に相対するもの。現代の比較広告そこのけといった名前である。だが、この名が実際使われたものだとして、何となくいかがわしい感じがしないだろうか。

◆記録によれば、山中鹿介と品川大膳の一騎討ちは、永禄八年(一五六五)九月二十日、場所は尼子氏の居城富田城のそばを流れる富田川の中州であったという。包囲側の毛利陣では吉川元春がせっせと『太平記』をコピーしていた頃だ。一騎討ちもおそらく攻守ともに飽いた気分が求めた「余興」であったかもしれない。ついでながら、幕末、長州藩に品川弥二郎という男が出現する。高杉晋作の後輩で軍歌「宮さん宮さん」をつくった。ひょっとして大膳の子孫であろうか。対して山中鹿介の後胤で豪商鴻池は幕府に肩入れしていた。両者の対決は三百年後にまで及んだことになる。

◆ところで山中鹿介(鹿之介)の相手である品川大膳は往々にして「品川狼之介」という名で記憶される。

◆童話では狼はいつも悪役・やられ役である。大膳が「狼之介」とつけた時点でその敗北は約束されていた。だが、軍記がしめすその戦いぶりは決して狡猾・残忍な狼のイメージとはそぐわない、正面切ったすがすがしさだ。かえって鹿介側の小細工が目立つ。

◆まず、その一騎討ちが武田信玄と上杉謙信のような爽快さに欠ける。品川大膳は半弓を手にしていたというので岸で見ていた秋宅庵之介という山中鹿介の仲間が憤る。そして自ら弓をもって品川大膳の半弓の弦を射切るという援護射撃をする。ここまではいい。だが、弓を奪われた品川大膳が鹿介に組み討ちを挑んで、これに馬乗りになったところを後から秋宅庵之介によって引き倒されるというのは、反則である。しかし、歴史上の一騎打ちではしばしばこうした「助太刀」が行われているようである。

◆毛利関連の軍記では『陰徳太平記』が一番有名であろう。それ以前となると寛文から宝永年間の間に成ったといわれる『温故私記』がある。その記述は実にそっけないのだが、いたずらな粉飾がなされていない分、惹きつけられるものがある。ここでは品川大膳は「たら木」はおろか「狼之介」とも称さない。ただ、「品川三郎右衛門」と名乗って、山中鹿介に弓矢で挑み、敗れるのだ。しかし、弓を捨てて組み討ちをしている鹿介・三郎右衛門の間に割って入るようにここでも秋宅庵之助が出現。今や鹿介の首をかかんとしている三郎右衛門を引き倒し、逆に鹿介を促がしてその首をとってしまうのである。その結果、鹿介の手柄を吹聴する際、「鹿に勝つものは狼なり。それさえをも仕留めたり」と討った相手を勝手に「品川狼之介」と名づけたというのだ。

◆『陰徳記』は『陰徳太平記』の元本である。執筆時期は正保年間以後といわれるから『温故私記』よりは幾分か早い。ここでは「山中鹿助品川狼助合戦之事」という一章をもうけている。ここでは品川大膳は「鹿ニ勝者ハ狼ナルベシ、トテ自ラ狼助トソ名乗ケル」とある。この違いはどうだろうか。

◆これは毛利側の記録ということだからだろうか、どうも諸書は鹿介に手厳しい。

◆もっとも毛利寄りの史料ばかりではない。『名将言行録』中の「山中幸盛」条では品川大膳は「鹿を従えるものは、狼ならんとて、狼之助勝盛」とあらためたとある。これは明らかに「洒落」を本とした江戸時代の人間の発想だ。

◆ところで、呼称の相違こそあれ、山中鹿介はいずれも秋宅庵之介に窮地を救われている。その合戦描写はどう見ても尋常な一対一の決闘ではない。尼子寄りの『雲陽軍実記』も同様だ。ここで品川大膳はついに「たら木」と姓さえも変えるのだ。

◆「ギョエテとはおれのことかとゲーテ言い」という川柳があるが、要するに「たら木狼之介勝盛」などという名は当の品川大膳、知ったこっちゃない、というところだろう。ともかくも品川大膳は敗れる。

◆だが、尼子の兵たちの間では静かではあるが、動揺がひろがっていた。

「鹿をとるべき狼が鹿に負けるとは・・・」

この反応こそ、後味の悪い勝ち方をした者たちの実感と受け取れないだろうか。山中鹿介の勝利もむなしく、尼子氏滅亡の序曲はすでにはじまっていたのだ。『後太平記』によれば、富田城中には次のような落首が貼られたという。

狼が鹿に取らるる世となれば負け色見ゆる勝久(実際は尼子義久)の陣

◆この一騎討ちの勝者、実は死せる狼のほうではなかったか。



*補足調査
品川大膳の子孫で、代々キュウリを食べない家があった。理由は山中鹿介との決闘に敗れた原因がキュウリのツルに足をとられて転倒したからだという。現在、この禁が破られ、当主がキュウリを食したところ、飼い犬が菜園の柵をまたごうとして転倒。倒れた場所にはキュウリの苗があったという。週刊朝日デキゴトロジーより。(X-file特別調査官:奥野新)

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