079「蛇神の末裔」



沼田顕泰(?―?)


勘解由左衛門尉、万鬼斎と号す。平安時代より代々上州沼田を領し、在地名を姓とする。沼田氏は上杉氏の家老長尾氏の家臣で、長尾景春に味方して主家と戦った。その関係で顕泰の長男憲泰は景春の婿となった。上杉憲政の没落後は北条氏に従ったが、長尾景虎の越山によってその傘下に入り、以後、沼田城は越後上杉氏の関東進出拠点となった。弘治三年(1557)、三男朝憲に家督を譲って隠居し、天神山城へ移った。永禄十二年(1569)、朝憲を殺害して、かわって末子の景義を後継に据えようと画策した。しかし朝憲の後家を中心に上州一円の反発を買い、会津へ逃亡した。室は長野信濃守顕重の女。


◆上州沼田城といえば、真田氏がこれをおさめた戦国末期、あるいは小田原北条氏滅亡の遠因となった猪俣氏による攻略を思い浮かべる方も多いと思う。しかし、それ以前。正確には越後の上杉謙信による関東進出、いわゆる「越山」が行われる以前には沼田城は沼田氏の居城であった。

◆弘治三年(1557)、老いた沼田万鬼斎は隠居所である天神山城へ移る際、「ゆのみ」という名の側妾を連れていった。万鬼斎には正室長野氏との間に三人の男子があった。このうち三男朝憲は上杉謙信の重臣北条高広の娘を妻としており、万鬼斎のあとをうけて沼田家当主となっていた。しかし、万鬼斎には気に入らない。

万鬼斎「沼田氏の当主とはすなわち沼田城主じゃ。城を上杉に明け渡しておる以上は当主なぞ名ばかり・・・」
ゆのみ「朝憲どのがだらしないのですよ。実家の権勢をかさに着る奥方のいいなりばかりで」

そもそも万鬼斎が北条氏の攻勢に抗しがたく、これに母屋を貸したのが発端で、実質的な沼田城主の座は北条孫次郎に明け渡してしまっていた。その後、上杉謙信の越山があり、万鬼斎はこれに降った。しかし、沼田城は万鬼斎の手には戻って来ず、上杉家の家臣たちによる在番が置かれたのである。自分の名と同じ城への愛着ははかりしれないものがある。しかも、朝憲の妻のバックには厩橋城代北条氏がついている。ゆのみが言うまでもなく尻にしかれっぱなしの朝憲がはがゆくて仕方がない。

◆末っ子の平八郎景義は愛するゆのみの子である。彼女の懇願もあって、いつしか万鬼斎の心の中には「自分の末の子を当主の座につけたい」という思いがひろがりつつあった。

◆唐突だが、諸星大二郎の劇画『暗黒神話』の中で、蛇の聖痕をもった主人公が登場する。

◆中国の史書『魏志倭人伝』によれば、倭の水軍は蛇の刺青をしていたという。尻に彫った一族は「尾形(オガタ)」と称し、胸に彫った一族は「宗像(ムナカタ)」と称したという説もある。緒方(尾形)氏は、古代海人の末裔・大神(おおが)氏の流れを汲むという古い家系だった。源平争乱の頃、九州を拠点に活躍した緒方三郎維義は臼杵・松浦の水軍を支配下においていたといわれている。

◆『平家物語』によれば、豊後国の片田舎に住んでいた女が、毎夜通ってくる男と関係を持ち、子供をみごもった。しかし、相手の男の素性がわからなかったので、狩衣の襟に糸をつけた針を刺しておいた。翌朝、女が糸のあとをたどっていくと、優母岳の岩屋についた。岩屋には大蛇がとぐろを巻いていた。月満ちて女は男の子を産んだ。大太と名づけられたこの男児の五代目の孫が緒方三郎維義なのだという。やがて緒方維義は、源義経の九州亡命を助けようとしたため、幕府の咎めにより上州利根郡に流された。維義の子の時代から沼田城に住み、沼田氏を称したといわれている。以来、沼田城主の子孫は代々、脇の下に蛇の鱗があったという。このほかにも信州の安曇氏は古代海人の血をひくともいわれているし、信濃・上野のあたりには海に関連する逸話や地名が多い。

◆自分の遠い祖先が広い海原で躍動したことを思えば、長野、上杉、北条といった大勢力に翻弄されてきた自分の人生がなさけないものに思えてくる。

万鬼斎「そうじゃ。わしの体内には古代海人の血が流れておる。こんなせまい土地でくすぶりながら一生を終えることは耐えきれぬ」

せめて沼田の名を冠する城だけはわが手に取り戻したい。年老いた自分の生はこの一戦で尽きるだろうが、愛する平八郎景義がその意志を継いでくれるだろう。自分の子孫が天下をどよもすことにでもなれば、この一挙に命を賭すことは決して意味のないことではない。ゆのみも万鬼斎をたきつけた。

◆永禄十二年(1569)、万鬼斎は年始の挨拶に出向いてきたわが子朝憲を殺害した。

万鬼斎「今日よりは景義が沼田家の当主じゃ」

ところがあまりに卑劣な手段をとったため、沼田の兵は万鬼斎の檄には応じず、後家となった朝憲の気丈な妻のもとへ集まった。兵力はそれに比例した。やがて万鬼斎が拠る天神山城は朝憲の妻によって集められた沼田衆、長尾氏、真壁氏、大胡氏、北条氏ら五千余の兵に囲まれた。

◆これには万鬼斎もたまらない。有無の一戦どころではなかった。生への未練も出てきた。この一挙におのが人生を賭けたはずの蛇神の末裔は、愛するゆのみと景義を連れて、あっさりと城を捨てた。その最期はわかっていない。

◆愛妾、その子供とともに会津へ逃れた万鬼斎の横腹に実際に蛇の鱗があったかどうかはわからないが、海のない上野国の沼田氏は古代の海人の血をひく一族であったという説には壮大なロマンを感じずにいられない。




*補足調査
私が読んだ事がある郷土史雑誌に載っていた沼田氏発祥伝説によると1185年に罪により鎌倉に送られてきた緒方三郎惟栄は利根沼田の庄司経家の館に山流しになります。その頃経家の館では夜な夜な妖怪が現れて姫を悩ましており、その話を聞いた惟栄は姫を助けようと館に着いた翌日に噂どうり現れた妖に鋭い一太刀を浴びせます。そして妖の血痕を辿って行くと三峰山の頂上にある沼辺まで続いており、見ると沼の水を真っ赤に染め大蛇とも大魚ともつかない化け物が沼に沈んでいきました。それ以来、妖は現れなくなり姫と惟栄は結ばれ赦免された惟栄は九州に帰りますが翌年姫は男子を生み太郎惟泰と名ずけ大切に育てます。 やがて、成人した惟泰は狩に出たときに山小屋で美しい姫と出会い互いの館を行き来する仲となります。そんなとき鎌倉を訪れていた惟栄が、まだ見ぬ我が子惟泰を訪ねてやって来ます。喜んだ惟泰は父に二世を契った姫を合わせようと思い三峰山中にある姫の館に向かうが、あちこち探しても見つからず「狭霧の館はどこだ」と叫んだところ突然霧があたりを包み、中に赤ん坊を抱いた狭霧姫が現れました。そして近寄ろうとする惟泰を悲しそうに拒むと静かに自分が二十年前惟栄に殺された沼の主の娘であり、復讐をしようと惟泰に近よったが逆に惹かれてしまい結ばれたことを告げ、赤子は惟泰の子で自分はもう会えないが陰ながら見守っているので立派な武将に育ててくださいと言い残すと霧と共に消えました。この時、惟泰の腕のなかに残った赤子が成人して沼田氏を名乗り地元では沼田氏発祥の狭霧姫伝説として伝わっているらしい。 ちなみに「沼田記」によると荘田に住んだ沼田氏は三峰山上に三峰山大明神を祀り代々十五歳になると山上の社で元服をしたそうです。 ところで沼田万鬼斎の最後ですが、会津の芦名盛重を頼って落ちていく途中愛妾ゆのみは死んだと伝えられ万鬼斎も芦名の元に着くとゆのみの後を追うかのように死没しました。また、内紛の素である平八郎景義は金山城主由良国繁の一族矢羽氏を頼りその女を娶って沼田城奪還の野心を燃やすが果たせなかった。(X-file特別調査官:火打鎌)

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