073「シリーズ武蔵の好敵手A小次郎謀殺指令」



佐々木小次郎(?―1612?)


生国不明。近年、九州の国人佐々木氏の一族であるとする説が浮上。巌流あるいは岸流と号す。富田勢源の流れを汲む鐘巻自斎に師事したというが不明。独自に工夫を加えた兵法を巌流と称して一流を創始。長大な剣をふるう「物干し竿」と虎斬りとも称する秘太刀「燕返し」が有名だが、実像は不明。細川家に剣術指南役として仕官。宮本武蔵と小倉舟島において試合を行い、敗れたと伝える。


◆たとえば信玄を語る時、謙信の存在が避けて通れないように、武蔵とかならず対になって登場するにもかかわらず、巌流島決闘のほかにはほとんど謎に包まれている人物だ。映画や小説では武蔵の前に最強の敵としてたちはだかるが、果たして剣の腕がどのぐらいであったのかは不明である。それでも細川家の剣術師範をつとめていたというから、二流・三流以下の剣士ではあるまい。

◆江戸時代、はじめて庶民の前にあらわれた小次郎は、武蔵の父吉岡(!)を討った憎々しい敵役であった(『花筏巌流島』)。

◆生国はどこか。吉川英治の小説『宮本武蔵』では、周防岩国の産、ということになっている。佐々木小次郎がツバメ返しを練習したという錦帯橋(岩国市)の近くには、その旨を刻んだ碑がたっているし、ツバメ返しの構えをとる小次郎の像も立っている。もっとも錦帯橋が架けられたのは、岩国藩主吉川広正の代であるから、「錦帯橋のたもとで飛び来ったツバメを斬って秘太刀を編み出した」というのはまったくのでたらめ。錦帯橋は延宝元年(一六七三)に完成した。つまり小次郎が生きた時代には錦帯橋はなかった。まあ、小次郎の練習場所だったところに、後になって橋が架けられたということも考えられるが、いずれにしても岩国と小次郎をむすぶ線がほかに見当たらない。

◆彼は小太刀の名手・富田勢源、あるいはその弟子の鐘巻自斎に師事したといわれる。きっと早熟だったのだろう。要領もよく飲み込みも早いと、だんだん尊大な気分が生じてくる。のちに富田流に反発したのか、師の小太刀に対抗するように「物干し竿」と称する長大な刀をつかうようになる。あんまり長すぎて、腰に差しても抜けないため、背中に負う姿が定着する。師匠や兄弟子が小太刀の稽古をする際、長い刀を持たされて練習台になったという話もある。越前浄教寺村の出身といわれたが、福井県には「小次郎の里」なんてものまである。富田流はたしかに越前や加賀に伝播したけれども、これも小次郎の生誕地であるとの証拠にはならない。

◆というわけで、岩国説、浄教寺村説。いずれも決定打に欠く。

◆これに対して、小次郎は九州生まれという説もある。細川家が小倉に入部する以前から居住していた国人衆佐々木一族の出だというものだ。新顔の細川氏にとって、地生えの勢力は煙たい存在だ。剣術師範として雇ったものの、小次郎の出世によって佐々木一族は次第に細川家中で幅をきかせていく。この一族の牙を抜くために、幕府や諸大名とも親交のある武蔵を招き、試合という形式で小次郎を葬り去ってしまおうというもの。

◆これを裏付ける記録としては、巌流島の決闘後、間もなく書かれた「沼田家記」がある。巌流島決闘も実見した細川家臣沼田延元の手になるものだ。これによると、武蔵は小次郎を撃ち倒した後、小次郎の弟子や佐々木一族の襲撃をおそれ、細川家の侍たちに守られて門司へ脱出したという。一方、小次郎は蘇生したところを、武蔵の弟子たちがよってたかって撃ち殺してしまった。一太刀で勝負が決まる映画や小説の緊迫感などは微塵もない。

◆沼田延元の記録もそのまま鵜呑みにはできない。武蔵の弟子がよってたかって小次郎を撃ち殺したとあるが、試合の当日、舟島へ渡ることは禁じられていた。また、舟島はひらべったい中州のような地形で、前日に島に渡って大勢が隠れていることなどは不可能だ。すぐに見つかってしまうだろう。ラッコのようにコンブをおなかに巻いて波間に漂っていれば、気づかれないかもしれないが。

◆では、小次郎を袋叩きにしたのが武蔵の弟子でなければ誰が?。島にいるのは検分役の細川家の侍たちだ。彼らは万一、武蔵が敗れた場合は島内で小次郎を謀殺する手筈になっていた。結果は武蔵が勝ったが、とどめが十分でなかった。そこで武蔵を慌しく島から追い出した後、息を吹き返した小次郎を集団でもって殺害したのだという。だとすれば、島には巌流島と敗者の名がつけられたことも、無念の死を遂げた小次郎への鎮魂とする理由づけが可能だ。

◆小次郎の享年もわからない。武蔵側の資料「二天記」では十八歳の少年であるが、こんな若年者を細川家が剣術師範役にするかどうかも疑問である。七十を超えた爺さんとする説もある。これも同様に細川家がこんな老齢の者を藩の代表として果し合いをさせるかどうか。

◆小次郎を前髪の美少年としてのイメージを定着させたのは、吉川英治の小説だが、すでに江戸初期の「二天記」には小次郎の年齢は十八歳であったとあるから、これを参考にしたのであろう。さすがに巌流島決闘の際には十八歳はないだろう、と前髪は落としてあるが、映画ではそのままのスタイルで登場することが多い。歌舞伎や浄瑠璃の影響を受けて小次郎を老人に仕立てているものには、五味康祐の『ふたりの武蔵』などがある。真実はどうあれ、むさくるしい印象がある武蔵に対して、若く高慢な青年小次郎像が一般に歓迎されるようである。


小次郎の眉涼しけれつばくらめ

(小倉手向山にある作家・村上元三の句碑より)



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