072「シリーズ武蔵の好敵手@剣と染物」



吉岡直綱(?―?)


道号憲法あるいは拳法、憲房。父は同じく憲法と号した又三郎直堅。祇園藤次に兵法を学び、京都今出川に「室町兵法所」を開き、足利将軍家の師範役をつとめたという。通説では鬼一法眼の京八流の末といわれ、密教の「止観」を修めて心胆を鍛錬した。『吉岡家伝』によれば、所司代屋敷で宮本武蔵と試合をし、引き分けたとある。同書では直重、重堅という弟があった。慶長十九年(1614)、大坂の陣がおこると、豊臣方について籠城。落城後、家伝の染物業を営んだという。


◆宮本武蔵の事蹟を記した半小説的記録『二天記』によれば、武蔵との試合は慶長九年(一六〇四)の春、場所は洛北蓮台寺野。現在の地名でいうと京都市北区船岡山の西に相当する。勝負は普通、武蔵の勝利で終わっているが、実は双方ともしたたかに相手を撃っていたが、武蔵は渋柿色の鉢巻をしていたので、血が滲んでも立会人にはわからなかった、という話もある。

◆相撃ちとする吉岡側の史料をつかったかどうかはわからないけど、最近は劇画『バガボンド』(井上雄彦)で武蔵は吉岡清十郎に額を割られ、その弟伝七郎と引き分けさせている。強い吉岡清十郎は珍しいと評判だ。だが、実際に対決の結果、吉岡が勝利したと記す『古老茶話』などの書もある。ちなみに清十郎とするのは、武蔵の養子伊織が建立した手向山の『小倉碑文』に拠る。

◆ふつう、武蔵と吉岡一門の決闘は前後三度にわたって行われた、とされている。最初が清十郎との洛北蓮台寺野。二度目が三十三間堂における伝七郎(清十郎の弟)、そして最後が一乗寺下り松の決闘で、相手は清十郎の嫡子又七郎を奉じた七十名余の門弟たちであったといわれる。もちろん三十三間堂にも武蔵と伝七郎の試合のことなど伝えたものはなく、武蔵映画のパネルを掲示して簡単に解説しているのみである。

◆一番、本当らしいのは一乗寺下り松で、碑まで建っているし、坂上の八大神社(鹿威しで有名な詩仙堂のさらに上にある)には、下り松の一部が祭られている。ちなみに、必ずしも八大神社とは書かれていないが、武蔵が試合の前に神に祈ろうとして、やめたというエピソードが武蔵側史料に散見する。小説のような七十対一の決闘だったかどうかはわからないが、何らかの足跡は残しているようである。この一乗寺の決闘シーンを描いた内田吐夢監督の映画『宮本武蔵』の第四作目は、シリーズ中の白眉と評価されている。

◆武蔵が著した『五輪書』地の巻に「廿一歳にして都へ上り、天下の兵法者にあひ、数度の勝負をけっすといへども、勝利を得ざるといふ事なし」とあるのは、この吉岡一門との決闘のことを言っているのだとする説もある。現在読むことができる『五輪書』などの註にも「扶桑第一の兵法者といわれた吉岡一門と三度戦ったこと」と懇切に記されているが、この出典は前出の『二天記』であるらしい。しかし、果たして「天下の兵法者」が吉岡を指すかどうかは裏付けとなる証拠はない。あとは、「ほとんど小説のようなもの」という評さえある『二天記』の記述を信用するしかないわけだが、『吉岡記』にも武蔵との試合が記載されているから、武蔵と吉岡道場の誰かが立ち会ったというのはまんざら嘘でもなさそうである。

◆しかし、試合後、武蔵も憲法も生きていることから、試合はおそらく引き分けたか、あるいは血を見ずに終わったものだろう。ついでながら、憲法の末弟重堅については、ぶざまなエピソードが伝わっている。慶長十八年、豊臣秀頼が東山に大仏殿を建立し、京の御所で落成に宴が開かれた。その折、能のを興行し、庶民にまで拝観させた。重堅は警護にあたっていた所司代板倉勝重の部下・太田忠兵衛と乱闘におよび、闘死したという。あるいはこれは弟のことではなく、憲法自身のことであるともいわれ、諸説入り乱れて、いずれが史実であったかも決しがたい。

◆『吉岡記』によれば、憲法はその後、大坂城へ入ったというから、案外、この弟の事件で京都所司代を恨み、ついには天下に弓引く仕儀となった、と想像できなくもない。

◆剣で食えなくなっても、吉岡には「憲法染め」がある。かえってこのほうが有名なくらいであった。『近世風俗志』にも憲法染めの項目があって、「明暦・万治中、京師西洞院四条、吉岡憲房と云う者、始めてこれを染むる。故に吉岡染めとも云う。この人、剣術を得たり。吉岡流の一流を極む。門弟多くあり。房を法にあらためて号となす」とある。染物業者として吉岡家が存続したということだけは確かだ。

◆筆者の想像だが、武蔵が上洛した時、実は吉岡はすでに剣を捨て、染物屋に転身していたというのはどうだろう。それでも昔の吉岡道場の看板か何かを記念に掲げていた。それを目当てに勝負を挑んだ武蔵であったが、店内には木刀一本とてなく、白けて帰ってしまったというストーリーだ。

◆関ケ原以後、武芸で立身出世を遂げる時代は終わりつつあった。剣と兵法に固執して諸国を彷徨した武蔵とは対照的に、剣よりも染物を選んだのは、泰平の時代を予感した吉岡一門の先見であったかもしれない。




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