068「理想のおるすばん」



内藤正成(1528―1602)


甚一郎、四郎左衛門。弓矢の達人として松平広忠、徳川家康に仕える。三河一向一揆が蜂起するとこれを鎮圧。この戦闘で伯父の渡辺高綱ら親族を討った。織田信長を支援した朝倉攻めでは金ケ崎殿軍をつとめ、三手の矢をもって敵六人を倒す。以後、姉川、長久手の合戦などに従軍。天正十八年、家康の関東入部に従い、武蔵国で五千石を与えられた。


◆元亀元年(1570)、織田信長は浅井・朝倉連合軍を叩き潰すべく徳川家康の参陣を促がした。織田信長の軍使は、虎の威を借る狐よろしく三河衆に対しても居丈高。
「わがお屋形さまより先手の制法をお伝えいたすとのこと。いざ、本陣まで同道されよ」
織田信長の軍使に対した家康の家臣内藤正成は烈火のごとく怒った。
「うちの殿は先手の仕様を人にならってするほどのボンクラではござらん。そんなに教えたければ、そっちから参るがよろしかろう」
思いもかけない反応に、顔面蒼白になった使者は本陣へ帰って、信長に言いつける。
しかし、こういう場合、信長は自分の言うことを聞かぬ者よりも、自分が命じた任務を遂行できない無能な部下のほうを嫌うのである。おそらく、この時、信長の胸中には家康や正成への怒りよりも、すごすご手ぶらで戻って来た使者への腹立たしさが渦巻いていたであろう。

◆その使者を怒鳴って追い返した内藤正成はさきの朝倉攻めにおける殿軍で、三手の矢をもって敵兵六人を倒すという攻をあげた家康秘蔵の家臣であったが、彼を重宝する理由はもうひとつあった。

◆家康が遠江二俣城を武田方から奪回せんと兵を動かした折のこと。内藤正成は脚を負傷していたので、この作戦には参加せず、浜松の留守を守っていた。相手はいくさ巧者が揃った甲斐武田。うっかり城を明けようものならたちまち謀略・奇襲をもって攻め取られかねない。臆病者の家康は留守を預かる正成に「よいか。わしの顔をじかに見るまでは何者が参ろうとも城門を開けてはならぬぞ」と命じて出陣。しかし、家康軍は風雨が激しくなってきたため、中途で引き返してきた。

◆家康は本多忠勝を呼び、「浜松の四郎左衛門へわしが戻ったことを知らせてまいれ」と命じた。忠勝は先発として浜松へ急行し、固く閉じられた城門を前にして、殿のお戻りである、開門、開門と呼ばわった。

◆が、浜松城の門は堅く閉じられたまま。あまつさえ、狭間からは鉄砲の列が忠勝を威嚇する有様。門櫓の上には内藤正成が姿を見せた。

正成「何者か。早々に立ち去らなければ撃ち殺すぞ」
忠勝「ばか。わしじゃ。平八郎じゃ。もうすぐ殿のお戻りである。城門を開けられい」
正成「やだピョーン」
忠勝「なんだと(怒)」
正成「わしは、殿の顔をじかに見るまで城門は開けるなと命じられておる」
忠勝「わしの顔を見よ。平八郎の顔を見忘れたかッ」
正成「フーム。たしかに忠勝どのにそっくりじゃ。だが、ひょっとしたらよく似たニセ者やも知れず、はたまたホンモノだとしてもすでに武田方に寝返ったやもしれず。門を開けるわけには参らぬのう」
忠勝「な、なに?」

◆あたりはすっかり暗くなっている。とりつくしまもないまま、忠勝はしぶしぶ引き返して、家康に事の次第を告げた。家康はそれを聞いて上機嫌。

家康「おーい、四郎左衛門。わしじゃ、今帰った」
正成「殿のお声に似てはいるが、はてさて本当にわが殿であろうや」

正成は提灯をつるして、馬上の家康を照らす。まぎれもない家康の顔だ。ホンモノの家康ならば、たとえ織田につこうが武田につこうが正成には関係ない。主君にひたすらついていくだけである。

正成「開門じゃ。殿がお帰りになられた」

正成は部下に命じるや、自身はすぐさま門櫓を駆け下りて、自ら家康を出迎えた。

◆内藤正成は大目玉をくうだろう、とてっきり本多忠勝らは思ったが、家康は留守居の大将を衆目の前で誉めそやした。

家康「四郎左衛門に留守を任せておけば、敵がいかなる謀略をもって城を乗っ取ろうと企てても安心じゃ」

◆今ならば、さしずめザ・ガードマン。それとも人間ファイアウォールといったところであろうか。




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