067「笑いと涙の背炙峠」



新国貞通(?―?)


上総介。蘆名盛氏の家臣。山東長沼を領す。子の栗村藤兵衛が蘆名盛隆の寵童松本太郎と男色の関係にあり、そのもつれによって盛隆を襲って主殺しを行ったが、変わらず長沼城主であり続けた。蘆名氏の没落により、伊達氏に従い、ついで会津に入部した蒲生氏郷に仕えた。天正十八年(1590)、奥州へ下向した豊臣秀吉によりいったんは本領安堵を言い渡されるが、不興をこうむり所領を没収されたという。


◆はしゃぎ過ぎて失敗したという話はたくさんある。特に言葉上の行き違いや、失言・暴言は誰でも経験があることだと思う。言ってしまってから「しまった!」と心の中で思っても、ついつい意固地になってしまう場合もある。もっとも言葉狩りとも言える昨今の風潮は、失言(?)者を追及する側さえ不快に思えてしまうだが。

◆しかし、「喜び方」が原因で、所領いっさいを失った男も珍しい。

◆時に天正十八年(1590)、小田原の北条氏を降した豊臣秀吉は、天下統一の総仕上げとして奥羽仕置を実行ため関東を発した。最大の標的はもちろん惣無事令に違反して会津を掠め取った伊達政宗である。すでに会津は没収と決まり、そこへいったい何者が封ぜられるかが人々の関心を集めた。

◆背炙峠までやってきた一行は、会津盆地を眼下に見ながら、しばしの休息。こういうパノラマを目にすると、ムクムクと演出癖がもたげてくるのが秀吉の骨頂である。小田原城下を見下ろしながら有名な「関東の連れ小便」に誘って徳川家康に関八州を押しつけた前科もある。秀吉の前には奥州諸将が顔を並べていたが、そのうちのひとり、老武者・新国貞通に秀吉の視線が向けられた。新国貞通は秀吉の奥州入りに際し、その饗導役を買って出ていたのである。

秀吉「新国上総介は、武名芳しい好漢。この背炙峠より見下ろしたる会津の目の及ぶところをば、そのほうに与えようぞ」

これを聞いた新国貞通、降って湧いたような幸運に、思わずイエーイ!
それはそうだろう、会津蘆名氏の家臣に過ぎず、つい先ごろも孫のような世代の伊達政宗に真っ先に屈服し、おまけにお正月の宴席で顔を白粉で塗りたくって鼓を打つなどのご機嫌取りをし、敵味方の失笑を買ったばかりなのである。それが今や立場は逆転。政宗は会津を没収され、自分は南陸奥の新しい主となったのである。

貞通「いやあ、これはまことでござろうや。まるで夢の心地がいたしまする」

◆一方、「所領安堵プラス所得倍増でめでたやフィーバー」モードの新国貞通を冷たい目で眺めていた秀吉は、新国貞通のただいまの言葉にたちまち色を変えて、こう言い放った。

秀吉「わしの言うことをうつろな夢と申すか。汝は妄人である。そのような者に会津を与えるわけにはゆかぬ」

史料には「是あに実か、甚だ夢に似たり」と喜んだ新国貞通に対して、秀吉は怒り、「我言を以て虚夢となすは汝尤も妄人なり」と叫んだとある。いろいろ解釈はあろうが、自己の存在を絶対化しつつあった秀吉は、自分の言葉を「うっそ〜!?マジぃ?」と茶化されたくなかったのかもしれない。新国貞通にしてみれば、肩でもふるわせつつ、「ありがたきしあわせ・・・」とでも恐縮していればよかったのだ。

◆すでにこの頃から秀吉の自己肥大化の兆候が見られたと言えなくもない。しかし、この小田原・奥州征伐の折には、まだ秀吉は晩年の老耄も感じさせなかったし、神経も正常だった。これは出来過ぎというよりは、あまりにも秀吉の反応が唐突ではなかろうか。「やる」と言った舌の根が乾かぬうちに「やらない」では朝令暮改にもなりかねず、人心も同様する。おそらく秀吉は旧蘆名家中における新国氏の動向も、部下を通じて耳にしていたはずである。秀吉ははじめから新国貞通に本領を安堵する気などなかったのではないだろうか。あるいは「掌返し」で田舎者の老武将の心を弄んだのであろうか。

◆結局、会津は蒲生氏郷に与えられ、新国貞通はこれの家臣になった。しかしながら、この「背炙峠」の一件のショックが尾をひいていたのだろうか。その後もさしたる活躍もなかったことを思えば、蒲生家中においても泣かず飛ばずであったのだろうか。




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