065「生きた化石・平島公方」



足利義維(1509―1573)


義賢、義冬。従五位下左馬頭。室町幕府十一代将軍義澄の子。はじめ赤松義村の庇護下にあったが、永正十七年(1520)、細川澄元によって阿波に移され、十代将軍義稙の猶子となり、兄義晴と将軍位をめぐって争う。大永七年(1527)、三好元長らに擁されて堺に移り「堺公方」と呼ばれる。元長の敗死によって天文三年(1534)、阿波平島荘に戻る。以後、三好一族に擁立され、細川氏が推戴する義晴と対立した。松永久秀・三好三人衆らによる足利義輝謀殺後、永禄九年(1566)に子の義栄を十四代将軍に就けることに成功する。父子ともに摂津富田に入り、織田信長の擁する足利義昭との対決姿勢を強めたが、義昭の入京以前に義栄が病没したため、ふたたび平島へ戻り、天正元年(1573)十月八日、同地で没した。法号慶林院実山道詮。


◆江戸幕府の公方(御所)といえば、江戸城の将軍しかいないが、室町幕府の公方はあちこちにいた。ちょっと指を折ってみれば、鎌倉公方、古河公方、堀越公方、小弓公方、堺公方、篠川御所、稲村御所。諸大名を頼ってあちこち漂泊した足利義稙にいたっては「流れ公方」なる呼称を頂戴してしまっている。どこかに落ちついていてくれたら、きっと土地の名がついたことだろう。

◆今回は平島公方(御所)がテーマである。

◆平島ってどこ?という方がほとんどかもしれない。具体的に誰?ともすぐには思い浮かばないのが普通だと思う。足利義維という人も忘れられた存在だろう。息子にして室町幕府十四代将軍となった義栄もなんとなくパッとしない。

◆阿波守護細川持隆は当時、足利氏とゆかりのあった天竜寺の寺領・平島荘へ義維を向かえた。このため義維は初代平島公方ということになった。永禄年間には平島砦を修築してこれに移った。館は一町四方のなかなか立派なものだったという。

◆義維は畿内政権をうち立てつつある三好一族の後方基地・阿波に腰を据え、堂々みやこ入りする日を待ちわびていた。義維の養父となった「放浪将軍」義稙は実父義澄の競争相手であったが、最期は阿波へ落ち延びて、撫養で死んだ。自分は十一代将軍の実の子であり、十代将軍の養子である。まぎれもない足利の正統だという自負があった。しかし、畿内は戦乱の巷にあり、将軍位にあった義維の兄義晴も身一つで近江へ落ち延びる有様。上方のいくさはなかなか破瓜がいかない。ようやく堺へ上陸してもそこから先へ進めない。世は「堺公方」だの「堺大樹」だのと呼ぶが、なんとなくマガイモノくさい。公方モドキか、公方ダマシだ。

◆京都入りを待つ間に、義維を招いてくれた守護細川持隆も、パトロンの三好長慶も、どんどん死んでいった。室町幕府の将軍も義晴、義輝と移った。

◆義維はもう自分のことはあきらめた。だが、息子には将軍位を継がせたかった。その望みどおり、長子義栄は三好三人衆に擁されて、十四代将軍に就任した。しかし、またしても摂津富田で足止め。おまけに十三代将軍義輝の弟覚慶が還俗し、織田信長に擁されて上洛の準備を進めつつあった。

◆しかし、天は義維父子に味方しなかった。義栄は摂津で病没。実力者である松永久秀にしてからが信長に茶器を差し出して臣従する始末。義維はひとり阿波平島へ戻る羽目になった。そして後ろ盾である三好一族も長宗我部氏に敗れてしまった。そのうち、入京した義昭自身も信長に追放され、室町幕府は滅亡した。もう誰も公方を担ごうなどという者は現れなかった。義維の子孫たちが京都へ戻る夢はついに果たされることはなかった。

◆そんなことをしている間に、世は織田、豊臣と移り、阿波には蜂須賀家政が入部してきた。蜂須賀氏は自分の領地に前時代の遺物ともいえる公方を見て呆然としたかもしれない。が、とりあえず在所の「平島」という名を名乗らせ、百石ほどの捨扶持をあてがった。もとが野武士のオヤブンだから、貴種に対する尊崇の気持などは微塵もなかった。蜂須賀氏の前に阿波を支配した長宗我部元親が公方の所領三千貫を安堵してくれたのとは雲泥の差だった。藩主の冷淡な扱いにも関わらず、平島の足利家末裔たちは、「平島公方さん」と地元にしたしまれたという。彼らはただただ将軍として京都へ帰る日を待ち望んでいたのだろうか。

◆歴代の平島公方は次のとおりである。義維(義冬)、義助、義種、義次(平島姓)、義景、義辰、義武、義宣、そして義根。歴代当主の中からは漢詩文などに才を示す者もあらわれ、平島は地方文化の中心ともなった。が、その底流には常に蜂須賀氏による冷遇に対する不満がわだかまっていたようである。

◆そして、休火山があたかも再噴火を迎えたごとく、最後の第九代平島公方・足利義根が蜂須賀氏への憤懣を爆発させ、阿波を去ったのは、江戸時代もあと六十年あまりで終わろうという文化二年(1805)のことであった。キレるまでに二七〇年あまりかかったとは、哀れを通りこして微苦笑を禁じ得ない。




XFILE・MENU