061「魔法修行者の愛読書」



九条稙通(1507―1594)


従一位関白内大臣。道号玖山、九条尚経の子。母は三条西実隆の女保子。天文二年(1533)、関白・氏長者となったが、困窮のため翌年未拝賀のまま辞任。摂津国に下り、のち播磨国を流浪した。弘治元年(1555)、出家して行空、のちに恵空と号。天正二年(1574)五月、家領・家伝記録類を養子の兼隆に譲った。大学者である外祖父実隆の資質を継承し、古典研究者としても名高い。源氏物語の注釈書など著作を多数残している。文禄三年(1594)正月五日没、法号東光院。一女は十河一存の室と伝える。


◆戦国時代の公卿の中には、気骨のある人物がいる。べったり白塗りの顔に鉄漿をつけ、「まろはプリンが好きでおじゃる」とねちっこく喋るイメージからはほど遠いのであるが、乗馬の名手や剣の達人などもおり、決して軟弱の徒ではなかった。まあ、自分では何もしないという伝統はひきずってたかもしれないが。

◆今回の主題である関白九条稙通は、なんと魔法に凝っている。魔法といってもテクマクマヤコン、テクマクマヤコンなんてものではなく、日本古来の「飯綱の法」である。これも最近はだいぶ知名度もあがっているようだ。山田風太郎の『室町御伽草子』の中でも稙通は登場するが、そのうちに彼が主人公の伝奇小説なども書かれるかもしれない。もっとも稙通自身が魔法を駆使したという話は多くない。彼は純粋に「修行」しただけなのだ。このあたりが、熱心に空を飛ぶ練習をしていた細川政元などとは違うところだ。放浪中に戦場にもよく出たらしく、娘はあの「鬼十河」こと十河一存の妻になっている。あるいは三好・十河らの軍勢にまじって戦っていたのかもしれない。

◆その稙通が、どうやら飯綱の法を成就したらしい、と自覚したことを語っている。それによれば、自分が寝るところには、必ずその頭上の木にフクロウがとまるようになった。また、道を歩けば必ずつむじ風が起こった、というのである。

◆魔法修行は、稙通の精神面を鍛える役割を果たしたらしい。織田信長が足利義昭を奉戴して上洛したときの逸話が有名である。稙通は信長を見ると、立ったまま、
「上総介か、上洛大儀」
と言い放ってプイと出て行ってしまった。よく後々、殺されなかったものだ。しかし、この時は位階も稙通のほうがズンと上であるから、仕方がない。天下に号令して乱世を終わらせようとする信長にしてみれば、礼のひとつも言われて当然と思っていたから、おおきにアテがはずれたわけだ。もっとも、この頃、稙通は摂津・播磨のあたりを流浪していたかも知れず、本当にあったことかどうかはわからない。

◆信長のあとを継いだ秀吉に対しても同様だ。氏素性にコンプレックスのある秀吉は、なんとか名家の姓を貰いたい。徳川家康討伐に失敗して征夷大将軍への道を鎖された秀吉には、「関白となって天下に号令する」道が残されていた。権力におもねることが得意の近衛前久の入れ知恵だ。が、関白には五摂家(近衛、鷹司、九条、二条、一条)の者以外はなれない。近衛前久、秀吉に請合う。
「藤原氏になることぐらい、容易いこと。おまかせあれ」

◆ところが、九条稙通はそんなお調子者の前久をつかまえて、
「五摂家に甲乙の序列はないが、氏長者のわしがゆるさぬ」
と一喝。秀吉の藤原氏改姓は沙汰やみとなり、豊臣氏を新設することになる。秀吉のあとに秀次が関白になった時、稙通はポツリとひとこと、
「今に罰を受けように・・・・・・」
はたして秀次は間もなく自刃。恐ろしいほどの言霊の威力である。

◆元関白の稙通は拝賀の費用が調達できずに辞任した経緯がある。お金がないから関白職を放り出したのである。こういう人物は珍しいが、彼にしてみれば断腸の思いであったかもしれない。世間知らずの秀次に対する言葉にも呪詛がこもっていたかもしれない。

◆そんな稙通も家門隆盛を養子の兼孝に託して、財産を譲り隠居することになった。前から交流のあった里村紹巴が訪れた時のことである。

紹巴「近頃はどんな書物を読まれますか」
稙通「源氏物語」
紹巴「何かよい歌書はありませんか」
稙通「源氏物語」
紹巴「どなたかがおいでになり、ご閑居をおなぐさめしているのでしょうか?」
稙通「源氏物語」

返ってくるのは同じ答えだけだったという。
稙通は明けても暮れても『源氏物語』を愛読し、
「この書ほど、興味深いものはない。六十年あまりも読んでいるが、まったく飽きない。まるで延喜の御代に住んでいる心地にさえなる」
と常々、口にしていた。朽ち果てた宿坊に寝起きして、輪袈裟をかけ、印を結び、魔法修行に精を出し、食事のあとはもっぱら『源氏物語』を読んでいたということである。



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