059「シリーズ大谷刑部・家康暗殺剣」



加賀井重望(1561―1600)


弥八郎、重望、秀重、秀望。美濃国加賀井城主加賀井重宗の子。本能寺の変後、織田信雄に従い、小牧長久手の合戦に参加。降伏後、羽柴秀吉に出仕し、一万石を領す。慶長五年(1600)、関ケ原合戦の直前に三河国池鯉鮒で飲酒して口論の末、同席した水野忠重を斬殺、堀尾吉晴に重傷を負わせ、自らも殺害された。


◆たとえ高潔な人格者ではあっても、大谷吉継は石田三成のように観念論に終わることはなかった。出羽の検地では一揆を力で押さえつけようとしたこともある。三成がふりかざす「正義」は甘いと吉継は考えていた。暗殺、夜討ちを嫌って正々堂々の合戦をのぞんだ三成は、一方で、自軍の中の不協和音をしずめるためにもっぱら「利」をもって対処しようとした。たとえば、小早川秀秋に対する関白職の約定などである。

◆吉継は、小早川秀秋などはなから信用していなかったようだ。関ケ原におけるその布陣を見れば、大谷勢の南側に脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、小川祐忠、そして小早川秀秋とことごとく内応者が居並んでいることがわかる。また、関ケ原本戦の直前、北陸路で前田利長の軍勢と対峙していた時には、与力として従っていた大津城主京極高次がものの見事に東軍に寝返って居城に戻ってしまっている。吉継は、まるで内応しそうな者を一手に引き受け、監視していたような観さえある。

◆吉継には東西決戦の結果が見えていた。味方は半分以上が日和見か敵方に通じているため、頼りにならない。こんな状態で百戦錬磨の徳川家康と野戦で勝負して勝てる見込みはない。吉継は三成にすすめてひとりの男を東へ差し向けた。その名は加賀井重望。

◆加賀井重望は豊臣秀頼の使者というふれこみで江戸へ入った。家康は表向き、豊臣家の大老であるから、秀頼の使者を迎えれば会わないわけにはいかないだろう、という見込みからである。

◆ところが、重望は秀頼の使者という切り札をひけらかしながら、堂々、江戸まで下ったものの、肝心の家康には会うことはできなかった。応対に出たのは本多正純である。家康は病に臥せっているという。「秀頼公の使者であるぞ」と重ねて言ったが、相手は頑として応じない。家康の病気はおそらく仮病であったのだろう。重望はすごすご手ぶらで上方へ引き返した。

◆途中、三河池鯉鮒において、重望は上杉討伐から先んじて戻ってきた堀尾吉晴とともに水野忠重を訪ねて酒宴を催している。その場で重望は忠重を討ち果たし、同席していた堀尾吉晴に傷を負わせた。しかし、堀尾の逆襲によってその場で殺害された。

◆通説では喧嘩の上の口論というが、『徳川実記』は重望のことを大谷吉継の企図に発し、石田三成が放った刺客であったとする。堀尾吉晴は家康より西軍の動向を探るよう命じられていたという。一説によれば、堀尾は同行した重望と共謀して水野忠重を討ったものと勘違いされて、水野家の侍に斬られたとも言われている。それはそうだろう。主人が血まみれで突っ伏しており、そばに死骸がひとつ。血刀をさげた堀尾が立っているのだから、てっきり下手人はこいつか、と思ったのも無理はない。水野家の家士たちの攻撃を受けたが、堀尾は塀を飛び越え、危うい命をひろった。とばっちりをくった彼こそ、とんだ災難であった。

◆しかしながら、この事件は、暗殺であるとすれば、いまひとつ意図がはっきりしない。のちの関ケ原合戦に対する効果もほとんどなかった。殺害された水野忠重は三河刈屋城主であったが、一時、徳川家をはなれ、豊臣秀吉の武者奉行などをしていた六十歳のじいさん。徳川家の中枢に位置するほどの重要人物というわけでもない。同じく、傷を負わせた堀尾吉晴は、豊臣家中老職だったが、この頃は実質的に隠居していた。家禄は五万石だが、その軍勢は子の忠氏が率いている。この二人を始末したところで、東軍を激昂させこそすれ、戦力を削ぎ落とす効果は望めないだろう。

◆わずかに考えられるのは、堀尾吉晴が西軍の動向を探るため、先行して三河へ入ったこと。さらに堀尾家の領地が越前府中にあり、同じく越前敦賀の大谷吉継が前田利長の南下に備えて北陸鎮定を準備していたこと、ぐらいである。つまり、狙いは堀尾吉晴で、彼を討つことによって北陸の敵を攪乱する目的があった、というものだ。

◆この加賀井重望が大谷吉継のはなった刺客であるとは、『徳川実記』のみに記されていることだ。真相は明らかではない。



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