058「シリーズ大谷刑部・千人斬り」



大谷吉継(1559―1600)


桂松、慶松、紀之介、吉隆、従五位下刑部少輔。豊後大友氏の家臣大谷盛治の子ともいわれるが、近江六角氏の旧臣大谷吉房の子とする説が有力。母は北政所の取次役を勤めたという。年少の頃から豊臣秀吉に仕え、中国攻め、賤ヶ岳合戦、小田原攻めなどに従軍、兵站奉行などをつとめる一方、出羽の検地を実施。越前敦賀を領し、三奉行のひとりとして朝鮮に渡海して明軍との調停にあたった。その後、癩病を患い諸役を免じられる。秀吉没後は一時、徳川家康に接近。慶長五年(1600)、盟友石田三成の挙兵をいさめたが容れられず、これに味方して関ケ原の合戦に参加。東軍に寝返った小早川秀秋らの大軍を相手に敢闘、敗れて自刃した。


◆英雄には誕生伝説というものがついてまわることが多い。そのほとんどが、当の人物が死んだ後に顕彰の意味を込めて捏造される。その母親が玉を呑んで孕んだとか、かくかくしかじかの瑞兆があらわれた、などといったものである。大谷吉継の場合はちょっと変わっている。

◆近江伊香郡余呉という地に大谷という在所がある。もとは大谷という武士が部下を養うために開拓したものだった。この大谷の末裔で庄作(大谷吉房のことか?)という者があった。彼の悩みは一向に子宝に恵まれないことであった。ある時、大谷の妻が土地の八幡宮に「どうか一子が授かりますように」と祈ったところ、社前で松の実を拾った。さらにその松の実を食べろ、という神示があった。妻がそのとおりにすると、間もなく懐妊し、男の子が生まれた。庄作は喜んで、八幡宮の神示にちなんで「桂松」と名づけた。これがのちの大谷吉継である、という。

◆玉などではなく、松の実というところがつつましい。神社ならば松があちこちに植わっていても自然だし、松ぼっくりなどはそのへんにいくらでも転がっていよう。案外、吉継の母が八幡宮に祈願した時に、記念に社前に落ちていた松の実を持ちかえったのは本当かもしれない。ちなみにこの母親は吉継が秀吉に仕えると、北政所の取次役として大坂城に出仕したという。

◆出世のスピードでは同じ近江出身の石田三成に一歩遅れをとったが、豊臣秀吉をして、「百万の兵を指揮させてみたい」と言わしめたエピソードは有名だ。残念ながら病魔に冒され、万余の軍勢を操る機会には恵まれなかったが、絶好の死に場所は得た。盟友石田三成の挙兵を無謀といさめたが、これを翻意させることが不可能と知ると、味方につく。もはや現世の欲というものを超越してしまって透徹した気分を感じさせてくれる。

◆しかし、こんな清廉というか透明感のある武将が「千人斬り」をしたらしい、などと言ったら、関係各方面から抗議が来そうだ。たいへんな人格者であったとさえ言われる吉継が、千人斬り。しかもおのれの病気を治すためのエゴが原因であったとは。しかし、被害が続出したのは事実であったし、大谷吉継が絡んでいるという「うわさ」が流布したのは確かなのである。

◆吉継の発病がいつかははっきりとはわからない。天正十四年、本願寺坊官が記した『宇野主水日記』には、「此の頃、千人斬りと号して、大坂の町中にて人夫風情のもの、あまた討ち殺す由、種々風聞あり。大谷紀ノ介と云う小姓衆、悪瘡気につきて、千人殺してその血をねぶれば彼の病平癒するとて此の儀申し付く云々、世情風聞なり」とある。

◆ショッキングというか、吉継ファンには我慢ならない一文であろう。だが、この事件の犯人が捕らえられたという話は残っていない。もちろん、吉継本人あるいはその家臣筋がおこなったものだとしたら、秀吉が黙ってはいないはずだ。それなのに、吉継が糾明された形跡はない。ということは、根も葉もない噂、ということになるのだが。気になるのはいったい誰がこんなひどい流言をまいたか、あるいは吉継にぬれぎぬをかぶせたか、ということである。当時から秀吉の政権内ではいくつかの派閥闘争の萌芽があった。尾張閥と近江閥、武断派と吏僚派、譜代と外様、秀吉派と秀次派・・・。どうも、そのあたりの暗闘に端を発している気がしてならない。折しも、癩(当時は天刑病と呼ばれた)という、不治といわれた伝染病を患った吉継であったが、なおも秀吉の信任を集めていた。千人斬りがおこったのは吉継が刑部少輔に任じられ、奉行に就任した翌年のことである。これに対し、これを卑しむ、あるいは妬む者たちが吉継の失脚を図ったということもあり得る。

◆しかしながら、秀吉も自分のメガネにかなった男がそんな卑劣なことをするはずがない、と確信していたであろう。秀吉は千人斬りの犯人捕縛に黄金十枚の懸賞金を出した。犯人が捕まったかどうかはさだかではない。が、吉継は以後、越前敦賀五万石に封ぜられ、病状が進んだ後も秀吉を自邸に招いて豪華な歓待ぶりが公卿の日記にも登場している。もはや、小人の妬み・中傷さえも吉継の評価を高めこそすれ、貶めることはなかったのである。


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