057「ニワトリを抱いて眠れ」



三井吉盛(1559―1584)


十右衛門、弥市郎、正武。曽祖父の代から武田信玄の家臣山県昌景の同心の家柄。天正十年(1582)、武田家滅亡後、本能寺の変の混乱に乗じて一揆を指導し、甲斐を統治していた織田旧臣河尻秀隆を討伐。その後、徳川家康に召出されて、井伊直政に仕えた。天正十二年四月、長久手の合戦において羽柴勢と戦い、討死。法名道本。

◆後年、武田家の旧臣は、信玄を畏敬する徳川家康によってスカウトされたが、特に山県昌景組の者は優遇された。実際、山県の同心には傑物が多くいる。武田家の重鎮山県昌景に新しく出仕したのは、三井十右衛門。十三歳、まだ前髪の少年である。先頃、戦死した三井の跡取りであった。

山県「そのほうの曽祖父や祖父は、武田家のために戦い、みなりっぱに戦場に相果てた。こたびはそのほうの父親がわしの身代わりとなった。きさまも先祖の名を辱めないよう精進を忘れてはならぬぞ」

と、訓示をたれたものの、まだ子供。山県もまあ、当分は屋敷内で小間使いでもさせておくほかはあるまいと考えた。

◆ある時、武田勝頼から山県に対して密命が下された。当家中の某が敵方に内応していることが発覚した。すみやかにこれを討ち果たせ、という内容である。山県は家臣の中でも腕におぼえのある者を選び、さっそく命令を伝えた。その場に十右衛門も脇にチョコンと座って、山県のはなしを聞いていた。このあと、十右衛門は家に戻ってくるなり、飼っているニワトリを抱いて男の屋敷の前の通りに立った。

◆やがて男が戻ってきた。一瞬、通りにニワトリを抱いた少年が立っているのを訝しく思ったようだが、相手が相手なのでそのまま通りすぎようとした。

十右衛門「あ。帯が」

十右衛門の帯が解け、着ていたものがしどけなく、前がはらりと露わになった。色白の大腿部に男の視線がいく。少年とはいっても武士の子だ。幼い頃から鍛錬した引き締まった体躯をしている。男の視線はもうクギづけ(笑)。

十右衛門「お武家さま、申し訳ございませんが、ちょっとの間、これをお願いできませんでしょうか?」

十右衛門が言ったのは、抱えているニワトリのこと。

武田家某「オッ。おお、よいとも」

思いがけなく声までかけてもらっちゃって、すっかり鼻の下を長くした男がニワトリを受け取りる。十右衛門は着物の前をかきあわせ、帯をなおす・・・ふりをして、隠し持っていた短刀を両手で固定するとそのまま相手にぶつかっていった。男はニワトリのせいで腹のあたりが死角になっていたし、何よりも両手がふさがっていて刀に手を伸ばすこともできなかった。いや、それ以前に何がおこったのかわからなかったのかもしれない、キョトンとしていた表情でコッコッコッと鳴いているニワトリを抱いたまま突っ立っている。いやはや、ギリシャ神話には、巨人アトラスに「ちょっと代わってくれ」と地球を担がせてしまった英雄の話があったと思うが、日本ではニワトリ。

十右衛門「ありがとう、お武家さま」

十右衛門がニワトリを取り戻し、お礼を言うと、腹に短刀を突っ立てた男は物も言わずに地に転がった。十右衛門は自分の帯をわざと解いて相手の気を散らし、おまけにニワトリを抱かせて両手の自由を奪ったのである。

◆この顛末を聞いた山県は、「あっ晴れ、けなげなやつだ」と十右衛門を元服させ、三井十右衛門吉盛と名乗らせ、山県家同心見習に取り立てた。間もなく、主君に従って山県は長篠へ出陣し、織田・徳川連合軍とのいくさで戦死した。十右衛門がこの戦闘に加わっていたかどうかは定かではない。おそらく年少を理由に国許に残されたのではないか。

◆十右衛門は、あるじ山県が死んだ後も武田家に忠勤し、その滅亡後も甲斐にとどまった。織田の代官河尻秀隆を討ったのも彼である。偶然、河尻に家臣本多信俊を殺害されていた徳川家康にとっても仇を売ってくれた恩人となった。

◆しかしながら、十右衛門自身はやはり戦場において手柄をたてて、祖父や父などと同じように壮烈な戦死を遂げたい、と思っていたようだ。その機会は、天正十二年、天下人に片足をかけた羽柴秀吉と徳川家康が対峙する「長久手の戦い」で訪れた。岡崎を急襲しようとする羽柴方の別働隊を徳川方が察知。小牧の砦を飛び出してこれを追尾して、全滅に近い打撃を与えた。この合戦で十右衛門は壮烈な戦死。武田時代から数えて三井家四代がことごとく戦場にたおれたことになる。




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