055「授業は礼服で」



藤原惺窩(1561―1619)


名は肅、字は斂夫。竹処、北肉山人、広胖窩などと号すが、惺窩の号が最も有名。冷泉為純の二男として播磨国に生まれる。同国竜野景雲寺で僧となり、のちに京都相国寺に学ぶ。天正十一年(1583)、還俗。神道家吉田兼見の猶子となる。文禄二年(1593)、肥前名護屋で徳川家康に謁し、その信任を得る。慶長元年(1596)、明国渡海を企てて果たさず、京都に隠棲。豊臣秀吉がおこした慶長の役による朝鮮の捕虜姜抗と親交を結ぶ。近世朱子学の祖とされ、石田三成、直江兼続、木下勝俊、赤松広秀、林羅山、松永尺五などが門下にいる。徳川家康の仕官要請を辞退し、元和五年(1619)没、京都相国寺竹林院に葬られた。


◆「初月給が出たら、自分用の礼服を買うように」と言われたことを覚えている。しかし、誰に言われたのか、よく覚えていない。あるいは実際に人に言われたのではなく、本か何かであったのか。しかし、筆者は初月給で礼服を買った。体型があまりかわらないので、いまだに使っている。車やパソコンを持っていなくても恥はかかないが、礼服がないと、困ったことにもなる。だから、ここでもう一度言おう。「車やパソコンもいいけれど、初月給で礼服をあつらえなさい」と。

◆藤原惺窩は日本人をやめたがっていた人だ。豊臣秀吉の朝鮮出兵なども苦々しく思っていた。しまいにはこんな日本にいても仕方がない、と大陸への渡海を企てた。計画は失敗して貴界ヶ島へ漂着してしまったが。奇行ぶりもさることながら、舌鋒も鋭く、相手のちょっとした隙を突いて攻撃するので、友達も少なかったようである。

◆夢破れた惺窩は、形だけ「脱・日本人」を実践することにした。明の官服のような衣装を身にまとい、唐冠をかぶっていた。学識があり、舌鋒鋭く、権力におもねらないので、世の先行きを案じる者たちには人気があった。しかし、惺窩は仕官の話をことごとく断った。彼の諸大名に対する採点も厳しい。その評価基準は戦陣にあっても文を忘れなかった人、ということにある。その結果、惺窩の眼鏡にかなった人物は、上杉謙信、高坂昌信、小早川隆景、直江兼続、赤松広通の五人である。もっともこのうち、赤松広通は惺窩のパトロンでもあったから、多分に義理も混じっているであろう。

◆徳川家康も『吾妻鏡』を愛読し、数々の出版事業を手がけた学者大名でもある。惺窩が評価する中になんで自分が入らないのであろう、と内心不満。自分も評判の学者を呼んで、教えを乞いたいと考えた。自ら詩作や執筆などは行わないが、いろいろな学者を招いて講義を聞くのは大好きなのである。

◆慶長四年、ついにその機会は訪れた。ところは京都伏見城。

家康「先生、どうぞよろしく御教示いただきたい」
惺窩「・・・・・・」
家康「はて。何かお気に召しませぬかな」
惺窩「あなたのその服装はなんです?」
家康「はあ?」

家康は平服に頭巾をかぶり、楽隠居の格好。対するに惺窩は相も変わらず明国の役人風の姿。

家康「いけませぬかな?」
惺窩「あなたは学問を茶でも喫するかのように、暇つぶしと考えておられるのか?」
家康「・・・・・・」
惺窩「学問を手なぐさみのようにしか考えておられぬ御人に、ご教授いたすものは何もございません。『大学』は孔子の遺書であり、身を修めることをもって基本としております。身が修まらないで、どうして国家を治めることができましょう。礼節をわきまえない者に聖賢の道を教えても意味がありませんな」
家康「ま、待たれよ。き、着替えてまいる」

家康はコロコロ太っていて、汗っかき。かたっくるしい礼服が好きではない。だいたい、暑い日などはフンドシもゆるめて、ペタンと床に座りこみ、裸でウンウンうなっているのが好きな男だ。だが、ここで我慢しなければ、一流の学者から認めてもらえない。それは口惜しい。それにしても豊臣秀吉が没した後のことだから、実力ナンバーワンの家康に対して、こうまで口がきける者は幾人いたであろうか。

◆怒られた家康にとっては、惺窩の講義は素晴らしく、たちまち自分のお抱え学者にしたいと考えたようだ。人間、周囲の誰もがへつらうばかりになると、たまに歯に衣着せぬ人物を好ましく思ったりするようである。しかし、惺窩にとっては窮屈この上ない話。結局、家康の仕官の要請を惺窩は断り、弟子の林道春(のちの羅山)を推薦した。体のいい押しつけではあったが、師よりもはるかに俗物の道春にとっては幸いなことであった。

◆それにしても、藤原惺窩が現代の大学教授にでもなったら、烈火のごとく怒って教室を出て行ってしまうのではないだろうか。「ああ、中国に生まれず、またこの邦の上世に生まれずして当世に生まる。時に遇わずと謂うべし」(『惺窩問答』)



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