048「獣の数字」



正親町天皇(1517―1593)


在位1557―1586。後奈良天皇の第二皇子。諱は方仁。母は参議万里小路賢房の女吉徳院。弘治三年(1557)、父帝の崩御のあとを承けて践祚。しかし、戦国期の皇室窮乏により即位の費用にも事欠く有様であった。永禄三年(1560)になって、毛利元就ら戦国大名の援助によって即位し、第一〇六代天皇となった。織田信長入京後は皇室領の復旧新設などの援助を受け、権威を回復した。一方、室町幕府を滅ぼした信長の恫喝にも屈せず、誠仁親王への譲位、暦の改定などの要求を退けるなど気骨のあるところを示した。天正十四年(1586)、孫の和仁新王(後陽成天皇)に譲位。文禄二年(1593)、正月五日に崩御。墓所は深草法華堂。室は万里小路秀房の女など。


◆後醍醐天皇は戦前・戦中あたりは「聖王」として絶大な評価を得ていたが、戦後はいわゆる唯物史観の洗礼を受けてメッキが剥がれ、客観的に評価されるようになり、教科書でも「建武の新政」がどうたらこうたらと、まるで落語の「目黒のサンマ」に出てくる「つみれにされたサンマの出がらし」のような扱い程度になり、いったい何のことやらピンとこない内容になっている。

◆そこへいくと、近年、正親町天皇はかなり人気が高くなっているのではないだろうか。何と言っても織田信長の人気が出て、それに敢然と対峙した帝、である。これがエスカレートして本能寺黒幕説の重用参考人に名があがることもしばしば。織田・豊臣という武家政権の道具に徹しつつも、譲れぬ一線を守り切った人物である。今谷明氏の朝廷・天皇をめぐる研究の影響も大きいだろう。氏の朝権の増大という論には反対意見も多いが、興味深い論考である。

◆永禄十一年(1568)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、キリスト教にも保護の手が加えられるようになった。京都にも南蛮寺が建てられ、わが国におけるキリシタン文化の最初の萌芽があらわれはじめた頃のことである。八月二十四日、和泉国堺の住吉神社の社殿がグラグラと揺れ動くという怪事があった。社殿は無事であったが、社前の松の木が六十六本、根こそぎ倒れてしまった。

◆京都では松永久秀の要請により、永禄八年七月五日、「伴天連を追放すべし」という女房奉書が出された。キリシタンの庇護者であった将軍足利義輝が横死した翌々月のことである。しかし、永禄十一年、信長が上洛すると、宣教師たちは次第に布教の自由を認められるようになった。つい先ごろ信長に対して「古今無双の名将なり。いよいよ勝ちに乗ぜよ」と絶賛した天皇は裏切られた思いであったろう。信長自身、「おまえたち(宣教師)は好きなところにおって、布教してよろしい。朝廷がなんと言おうと、おれが許す」という意味のことを語ったと伝えられている。

◆そうした矢先に、住吉神社の六十六本の松が倒れる、という怪異がおこった。

◆666と聞くと、ついつい聖書の黙示録を頭に浮かべてしまう。これはオカルト映画『オーメン』の題材にもなったから、ご存知の方も多いと思う。悪魔の使者のからだのどこかに、獣の数字が刻印されており、その数字とは「666」というものだった。

◆ともあれ、事態を聞き知った正親町天皇は、居並ぶ廷臣の前で憂慮を示された。

天皇「六十六とは、すなわち六十六州を指し示したものであろう。すなわち、わが国のことである。これは如何なる前兆か」

さっそく陰陽師やら僧侶やら識者が呼ばれて意見が聴取される。だが、帝の言葉がすでに答えを言ってしまっているようなもの。六十六が日本国六十六ヶ国を示したものであるのならば、その数に相当する松が倒れて、おめでたいわけがない。集められた連中が協議したことは、どこの誰に罪をなすりつけるか、ということだった。

◆果たしてその結果は、「近頃、京にも徘徊しおりまする、伴天連の呪詛によるものに相違ございません。これは、神国たるわが国をバテレンの国、すなわち南蛮に従えようとする不吉な前触れでございます」というものだった。

◆朝廷はさすがにキリシタンの教えには対しては、積極的な弾圧には出なかったものの、やはり理解しがたいものであったらしい。しかし、その後、大外記清原枝賢や曲直瀬道三が入信するなど、朝廷周辺にもキリシタン理解者は決して皆無ではなかった。とくに道三が天正十二年に洗礼を受けたことは、正親町天皇にとってショックだったらしく、何度も棄教するよう命じたが、ついに聞き入れられなかったという。




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