028「山名夫妻の秘密(前)」



山名豊国(1548―1626)


元豊、従五位下中務大輔、入道して禅高と号す。因幡国守護山名豊定の三男。母は細川高国の女。兄豊数を助けて毛利氏に対抗。のちに豊数が家臣によって鳥取城を奪われると、その仇を報じて同城を奪回し、守護職を継承。天正六年(1578)、羽柴秀吉に攻められ、降伏した。国人の反発によって因幡国を追われた後、秀吉の御伽衆に加えられた。その後、徳川家康・秀忠に接近し、関ケ原の合戦で東軍に従う。戦後、但馬国に六千七百石を与えられ、交代寄合に列し、駿府城へしばしば出入りするなど厚遇された。京都妙心寺東林院に葬られる。


◆山名氏といえば、最盛期に十一ヶ国の守護を兼ね、「六分一殿」と評判された大大名になってたわけだけど。まあ、室町幕府の守護大名なんてものは山名氏と似たりよったりで、領国統治は守護代に任せっきりで自分たちは京都にいるもんだから、たいがい戦国時代に入る頃には弱体化してしまってるな。かんじんの戦国時代にはなから弱体化してちゃ、支持されるわけがないのだよな。

◆山名豊国、と聞いてゲーム好きの人は、
「つかえねー」
と思うかもしれない。歴史小説などに登場しても、秀吉や家康にすりよって、どことなく卑屈そうで、文弱なイメージがあり、あまり人気もない。豊国の領地である山陰というのも、石高は低くて「うまみ」の少ない土地だ(あくまでゲーム上の話)。かっこいいエピソードもない。司馬遼太郎の『播磨灘物語』などにも出て来て、上方の人々の人気を集める黒田如水に対して、「如水殿は謀反の志ありという者がおるやもしれませぬ。少し慎まれては?」などと親切顔で忠告して逆にやりこめられてしまう場面がある。黒田如水関連の小説ではだいたい出てくる有名な話なので、ご存知の方も多いだろう。ちなみに司馬氏は、『街道をゆく』の中で山名氏のことを「ろくでもない大名」とくさしている。

◆これではいいイメージが湧くわけないのである。

◆ただ豊国のためにひとこと弁護しておくと、最初は徳川家康のほうから名族の裔である豊国を庇護したのであった。というのも、山名氏は新田義重を祖とする源氏の名門だ。とくに新田義重の流れと聞くと、家康の目の色が変わる。またぞろ家康の「ボクも新田源氏なんだよ、仲良くしよーね」病が再発したのである。まったく家康の根性は卑しいけど、一生懸命「おともだち」を作ろうとしているところが、まるでお菓子屋の友達と仲良くするような感じで、ある意味では可愛いのである。

◆こういうわけだから、豊国は駿府城への出入りもかなり自由だったらしい。

◆ある時、大御所家康に呼ばれて、駿府城を訪れた豊国。彼は黒い羽織を着ていた。黒く染めてあるのではなく、あまりに古くて、黒光りしているのである。しかも所々、破れている。吝嗇で知られる家康も思わず目をまるくした。

家康「禅高。そちの羽織はなんじゃ。黒光りして、エラクくたびれておるのう・・・・・・」
豊国「いやあ、お恥ずかしいかぎりです。アハハハ」
家康「物持ちのよいのも善し悪しじゃ。新しいものに変えたらどうか」
豊国「いえ、これは足利義晴さまから拝領した羽織でございまして。エヘヘヘ」

これを聞いた名家好きの家康。さすがは山名殿。殊勝なことであるよ、と褒め称えたそうな。『岩淵夜話』が伝えるエピソードである。

◆足利義晴とは、室町幕府第十二代将軍であった人物だ。高貴な人である。そんな人からいただいたものだから、まさに、お宝鑑定団やハンマープライスに出しても恥ずかしくない、プレミアつき、レアもの。限定品のジーンズにこだわる若者の元祖みたいな人だ、山名豊国は。

◆しかし、この足利義晴は天文十九年(1550)に没しているから、なんと豊国は、すくなくとも五十年以上も前にもらった羽織を愛用していたことになる。臭かったろう・・・という感想はひとまず置いといて・・・。ちなみに豊国の母は、義晴を将軍位につけてこれを補佐した管領細川高国の娘であるから、関係も深い。しかも義晴は将軍になる前の一時期、播磨あたりに流寓していたから、一応、信憑性のある話ではある。

◆ただ、義晴は大永元年(1521)には京都へ上ってしまったし、豊国は義晴が没した時はわずか二歳である。義晴がじかに豊国に羽織を渡すことはあり得ないだろう。と、すれば、豊国の祖父か父親あたりが貰ったのを、「おさがり」で着ていた、というのが妥当な見方だ。いずれにしても、山名家の「家宝」には違いないのだ。

◆「着たきり雀」というと貧乏ったらしいが、ここまでくると、これもひとつの「ダンディズム」ではないだろうか。「山名夫妻の秘密・後編」では、豊国の妻が登場する。




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