027「本番にはメチャ弱いトップガン」



稲富祐直(1552―1611)


松寿丸、弥四郎、直家、伊賀守、理斎、一夢。丹後田辺・一色満信の家臣。直秀の子で祖父直時から砲術を学ぶ。一色氏が滅亡した後、丹後に封ぜられた細川忠興に仕える。慶長二年(1597)、朝鮮の役に従軍。慶長五年、徳川家康に従って会津征討のため東下する細川忠興に室・玉子(ガラシャ)の警護と大坂留守居を命じられるが、逃亡。戦後、細川家より放逐された。のち、松平忠吉・徳川義直らに仕え、幕府鉄砲方として国友鍛冶集団を組織。流派は稲富流砲術として栄えた。慶長十六年、没。丹後国宮津の智恩寺に葬る。


◆いつの時代にも本番に強い部下というのが、上司にとってはいちばん頼りになる存在だろう。その逆に、平時の評判ばかりが高く、肝心な場面で役にも立たない人ほど始末におえないものはない。しかし、勝負事にはメンタルなものも影響するから、実力がありながらそれを発揮できない人までも卑怯者呼ばわりするのは気の毒な気がする。

◆今回とりあげる稲富祐直は戦国時代を代表するガンマンである。稲富、あるいは稲留と書いて「いなどめ」とよませるのが一般的のようだ。武功者が好きな細川忠興にも気に入られ、その家来となったが、その活躍ぶりはあまり伝えられていない。

◆朝鮮の陣の折、渡海した諸将たちが長い滞陣に倦み、虎狩りを催したことがあった。虎が追いたてられ、その前に立ちはだかったのが、二人の砲手。かたや立花宗茂の家臣十時三弥。かたや細川家の稲富祐直。両人が鉄砲をかまえて、虎に向かって発射。

◆結果は、祐直の弾ははずれ、十時三弥のものはみごとに虎に命中した。

◆あとでふたりが発砲した位置を測ってみると、なんと命中させた十時のほうが祐直よりも遠かった。稲富祐直といえば天下に名高い鉄砲名人。一方の十時は鉄砲に関しては素人であった。まあ、名人も的をはずすことはあるだろう、と一度だけならば愛嬌で済まされたかもしれない。

◆間もなく、祐直の真価が問われる事態がおこった。慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦勃発。徳川家康にしたがって上杉征伐に向かう細川忠興は、上方に残した美人の妻が何よりも心配。石田三成方に捕虜にされるなど、想像するだけで胸をかきむしられる思い・・・。忠興は妻ガラシャの警護に祐直を加えることにした。

◆徳川家康と武断派大名の留守を狙って、石田三成らが挙兵。上方に残された諸将の妻子を人質に取ろうと兵を動かした。虜囚の辱めを受けるのを嫌ったガラシャはいさぎよく自刃。警護役の小笠原少斎、河北石見らも殉死したが、ただひとり、稲富祐直だけは石田方の兵が細川屋敷を包囲するや、おそれをなして逃げ出してしまった。

◆今度の逃亡騒ぎで、世間の話題になった稲富祐直の名前に、朝鮮における十時三弥との対決を思い返した人々は、あの折といい、今度のことといい、本番になると臆するタイプなのだなあ、と評判した。これが細川忠興のかんにさわった。最愛の妻を失った忠興には、祐直が生き残った、というだけで許せなかった。さすがに祐直も主君の妻を見捨てて逃げ出したことに忸怩たる思いを抱いていたらしく、帰参を願い出るため、夜間、こっそり細川家を訪れた。しかし、忠興はたくさんの蝋燭をともして真っ昼間のように見せかけ、わざと人目にふれるように仕向けたため、祐直はさらに恥の上塗りをする羽目になった。イヤミな男だねえ、細川忠興ってのも。

◆結局、稲富祐直は細川家より追放された。そればかりでなく、他家に仕官できない「奉公構え」にされた。プロ野球選手でいえば、解雇されたばかりか、自由契約ではなく、プロの資格を剥奪されたに等しい。まあ、幸いにも徳川家からスカウトがきた。さすがの忠興の干渉もここまでは及ばなかった。稲富祐直は尾張徳川家に、弟・直重は幕臣として、それぞれ流儀を伝えた。白土三平の劇画『カムイ伝』には、稲富一心という代官の手下が登場するけど、やはり鉄砲の名手。祐直の流儀の継承者かもしれない。

◆稲富祐直にはもうひとつ変わったエピソードがある。彼は強力で、甲冑をふたつ重ね着しており、「二領具足」と異名をとった。甲冑は相当の重さがあるが、祐直はそれを二人分着用して戦場を馳せたというのだから、かなりの膂力の持ち主であったのだろう。しかし、逆に言えば、「いざ戦場に出た時に、鎧ひとつでは不安であったのだろうか」と勘繰りたくもなる(笑)。フォローしてあげようかと思ったが、やはり臆病者に落ち着いてしまった。


XFILE・MENU