025「天海にもあった、若い頃!」



天海(1536?―1643)


織豊期から江戸初期の天台宗の僧侶。随風、南光坊、智楽院、勅謚号慈源大師。陸奥国大沼郡の生まれで芦名氏の一族といわれる。若い頃から比叡山・園城寺・興福寺などで修行。天正十七年(1589)、駿府で徳川家康の帰依を受け、武蔵国川越喜多院、日光山に住した。家康の死後、その遺骸を久能山から日光山へ改葬。寛永二年(1625)、上野に東叡山寛永寺を創建、開山となった。のち徳川氏発祥の地とされる上野国世良田の長楽寺に隠退。秀忠・家光にも重用され、「天海版」とよばれる活字開版作業を行った。


◆あって当然だろ、若い頃。人間なんだから(笑)。しかし、昔は「いても当然だけど、実際にいたら、やっぱり変なものは?」という質問に対して「ふたごのおばあちゃん!」というのがあった(何かのコントだったろうか)が、今や、月に何度かはブラウン管でお目にかかっている始末(笑)。そういえば、横溝正史の長編ミステリ『八墓村』にもふたごのおばあちゃん、小竹・小梅(ちゃん、などと可愛いものではないのだが・・・。いやあ、気味悪いぞ、映画『八つ墓村』を観たまえ)が登場していた。ちょうどその頃の話だったろうかと思う。若い子のふたごはよく見かけるけど、年取ったふたごを見ないから、「果たして存在するのだろうか」と疑問をもったのだと思う。

◆今回は戦国屈指の長命人・天海僧正である。(彼は別にふたごではない)

◆天海とくれば、「あー、光秀の後身説だな」と思った人が多いだろうが、当コーナーの筆者はひねくれている。ここでは手垢にまみれた話題は取り上げないことにしている。

◆長寿ったって、ケタが違う。ホントに違う。

◆天海は長命であったことは疑いないが、いったい何歳だったのかというと、はっきりとはわからない。130歳説・116歳説・108歳説・106歳説とさまざまだ。本人の言うことをそのまま信じるとすれば、永禄四年(1561)、武田信玄と上杉謙信の川中島一騎打ちを見物したという。彼の述懐は、両雄の一騎打ちの肯定材料として近衛前久の「自身太刀打ちに及ばるる段、比類なき次第」という書状とともに、しばしば引用される。もっとも記録としては日記などの体裁をとっていないため、少々胡散くさくもあるのだが、年齢のほうはいかがわしいどころではない。没年から逆算すれば、82年前のことである。この頃二十代としたら、もう軽く100歳は超えてしまう。まあ、これに対抗できるのは永田徳本か泉重千代さんくらいなものか(笑)。

◆こんなに長生きしていながら、その行動がおぼろげになるのは、初老になってからである。もっとも天海の場合は初老になってからの「老後」が長いのだが・・・。こんな化け物のような人物を生んだのは、いったいどこの誰なのだろうか。親の顔がみたいものだ。

◆会津若松の南西、高田町。ここに天台宗・道樹山龍興寺がある。天海、その頃は随風といった青年僧が、この寺で得度したといわれる。『新編会津風土記』は永禄三年(1560)のことであったと伝える。なんと天海は二十代なかばである。「紅顔の、花も恥じらう・・・天海僧正」なんて想像できるわけ、ないだろーッ(笑)。まあ、若い頃なんて想像できない、って人はけっこういるけどね。きっとあなたの周囲にも・・・いることだろう。

◆天海は芦名氏の一族である舟木景光の長男として誕生した。幼名、兵太郎。「へいちゃん」とか「へーた」とか言われてたのかもしれないなあ。龍興寺には、舟木景光とその妻(つまり、天海のお父っつぁんとおっ母さん)の墓が残っている。二基の五輪塔の間に建っている墓碑には「慈眼大師両親墓」とある。

◆天海が生れた時、両親が産湯のために桶に水を汲んだ際、大きな鯉が飛び込んだ。「食べちゃおう」と思ったが、誕生祝なので逃がしてやることにした。ところが祝の席に呼ばれた学者がそれを聞いて、残念がった。

学者「この子は天下の主となるべきだったのに、おまえさんたちが鯉を逃がしたので果報は消えた。坊さんにするほかはあるまい」

こうして「でもしか坊主」天海の進路が決まった。

◆天海が創建した川越(埼玉県)の喜多院は、おそらく生まれ故郷会津の「喜多方」からとったのだろうかね?。

◆しかしなあ、こんなに長生きするんだったら、せめて一級史料とされるような日記でも覚書でも残しておいてくれたらなあ。まあ、坊さんとはいえ、修行の場であった比叡山延暦寺には天海所用の甲冑が残っているから、けっこう生臭だったんじゃないのかな。

◆ナニ、信じられない?、天海僧正に若い頃があったなんて。しかし・・・あなたももうすぐだ、「若い頃があったなんて信じられない」と言われるようになるまで・・・。フフフ(自虐的な笑い)




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