019「蓬莱宮の寛典とは何か?」



中島可之助(?―?)


長宗我部元親の家臣。天正年間、織田信長のもとへ使者として赴き、「元親の四国切り取り勝手たるべし」のお墨付きを貰う。中島氏は大和守親吉、与市兵衛重房などが長宗我部家臣として記録にみられるが、可之助がこれらに比定できるかどうかは不明。


★中島ベクノスケ(あるいは、ベキノスケ)という男が今回の俎上にあがった。名前も奇天烈だが、この男が残した言葉は今日に至るまで研究者の頭を悩ませている。

★わたしは長宗我部氏という、戦国期に辺境ともいえる土佐ににわかに勃興して潰え去ったこの奇妙な名前の戦国大名が好きである。長宗我部という特異な姓がまるでわれわれの人種とはまったく違った種族――まるで絶滅したニホンオオカミのような――を連想させるせいもある。

★以前、土佐へ旅行(私事だが、わたしは普段でも旧国名のほうが先に頭に浮かんでしまう。現在の都道府県境が曖昧なところでも、旧国名でいわれると納得することがたびたびある)した。幸いにして四国四県はほぼそのまま旧国名から境を変えていないので混乱することはない。ほぼ、といったのは、淡路島のように明治後、阿波の蜂須賀家の版図から兵庫県へ組み入れられてしまった例もあるからである。淡路は独立した国であったから江戸期の四国は五ヶ国であったともいえるかもしれない。

★わたしは電話帳を繰って「長宗我部さん」を探したものである。かなりの数があった。とはいっても元親の血筋を伝えてはおらず、大方、明治後に大百姓などが旧主の姓を称したものであろうと思う。

★中島可之助は主君元親の使いとして、岐阜の織田信長を訪れ、以下のようなエピソードだけで知られるようになった。


信長「元親はムチョウトウノヘンプクじゃな」
可之助「ホウライキュウノカンテンにそうろう」



★信長にはちょっともってまわった言い方をするくせがあった。「ムチョウトウノヘンプク」と音読みした言葉は「無鳥島之蝙蝠」である。すなわち、「鳥なき島のコウモリ」というわけだ。コウモリは鳥のところへ行ったり、ネズミのところへ行ったりして態度をコロコロ変えるので節操がないと人に思われてきた。元親は鳥が一羽もいない島(四国)のうちだけで「自分は鳥だ」と言い張っているコウモリのような男に過ぎない、というのだ。

★いきなり「ムチョウトウノヘンプク」とやられては面食らわないほうがおかしい。しかし、可之助は「ホウライキュウノカンテン」だと言い返したのである。ようやく主題に入った。

★「ホウライキュウノカンテン」は、通常「蓬莱宮の寛典」にあてられる。神仙思想の蓬莱山にある宮殿。寛典とはゆとりのある扱い・処置ということであろうが、これだけでは何が何だかわからない。元親が蓬莱宮の主で、寛大な心を持った人物だといいたいのだろうか。

★「カンテン」は寒天のことだという説もある。寒天はテングサを煮た液を乾燥させたものだ。「(信長よ、あんたは)蓬莱宮の天狗さ」とシャレたのだという。しかし、寒天の考案は江戸初期のことであるというから、その通りの意味であったとしても、可之助のエピソードは後世の創作、ということになる。

★いやいや、可之助の言った言葉には意味はないのだ、という説もある。ただ面食らわせた信長へのお返しに煙に巻いたのだという。実際、信長も可之助の言葉の意味がわからなかったらしい。ともあれ、自分の言葉に素早く反応した可之助を褒めたという。使いに出す人物にはそれなりの機知が働く者を、という好例でもある。


*補足調査
蓬莱宮のカンテンは「漢天」であり、天の川が見える空のこと。元親を神仙が棲むような蓬莱宮に居り、夜空にひろがる天の川のような人物だ、と岩原信守氏は解釈しています。無鳥島に蓬莱宮が、蝙蝠に天の川が対比されているのだと説いています。
(X-file調査官:三楽堂)


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