017「名軍師、三十万石を知行せず」



直江兼続(1560―1619)


樋口与六、山城守、重光。長尾政景の家臣樋口兼豊の嫡男。政景の次男顕景(景勝)の小姓として出仕、次第に頭角をあらわす。御館の乱により景勝が上杉家を相続した後、断絶していた直江家の名跡を継ぐ。天正十年(1582)、羽柴秀吉に臣従。秀吉政権下で景勝に従い佐渡攻略、小田原征伐、文禄の役などに従軍。上杉家の会津転封とともに米沢三十万石を領すと伝えられる。慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦の端緒となる会津攻めの立役者となるが、敗戦。徳川家の老臣本多正信の子政重を養子に迎えなど徳川幕府とのつながりを強める。文化面ではわが国初の銅板活字による『直江版文選』の開版や『宋版史記』など貴重な蔵書で知られる。

★何を隠そう、中学の時に司馬遼太郎『関ヶ原』を読んで以来、直江兼続が好きである。藤沢周平『密謀』が出版された時はもらったばかりのバイト代を使ってしまった。しかし、好きなあまり、最近はわざと冷淡になることがある。彼のエピソードはそれなりに面白いのだけれど、必ずしも真の姿を伝えてはいないからだ。

★「義」だとか「愛」だとか言って、石田三成と謀って蒲生氏郷を毒殺したという黒い噂があるし、何よりも二代目上杉定勝の代になって直江家の菩提寺が破却されたのは異様だよ。

★大体ね、あの米沢で三十万石領したなんてのは嘘だよ。江戸初期の検地で米沢が三十万石以上あったことは確かだけど、兼続は米沢城主だっただけで、全域を領していたわけではない。その証拠に、「直江兼続は三十万石」と記した人々のうち、秀吉なり上杉景勝なりが発行した(三十万石の)知行宛行状を示した方がいただろうか?
ただ、秀吉が兼続を買ってた、というのは確かだ。加藤清正さえ得られなかった豊臣姓を貰っているくらいだからね。主家が百万石クラスの大身であっても、家老の石高はだいたい五、六万石といったところだね。加賀前田家の家老本多政重、この人は一時、兼続の養子となっていた人だけど、たしか五万石だった。宇喜多家の家老明石全登も「秀吉より十万石を知行された」とものの本には書いてあるが、『宇喜多家分限帳』には三万石とある。三十万石なんざあ、ベラボーめぇ、だ。

★大坂城中で伊達政宗とすれちがった際、兼続が挨拶しなかったのを政宗がとがめた時のエピソード。

兼続「お、たしかに伊達様。戦場ではついぞ後姿しか拝んだことがなかったので、とんと気づきませんでした」

何たる無礼だろう。会社の中で他の部門の長に挨拶せず、咎められると、「あ、社長に謝る背中しか見たことがなかったので、気づきませんでした」と言っているようなものだ。わたしが政宗だったら、その場でぶった切っているね。

★どうして、兼続のエピソードとなると、引き合いに出されるのがこれまたファンの伊達政宗なのだろうか。次も有名なエピソード。
大坂城内の諸大名詰の間で、政宗が懐中から慶長大判を取り出す。

政宗「おのおのがた、ご覧になったことはあるまい?」

大名たちはみんな珍しがって回覧していき、やがて末座にいる兼続の前に回ってきた。その大判を兼続は扇子ですくって、羽根突きみたいにポンポンはじきだしたというんだね。政宗も心中は唖然ととしただろうけど、気配りの達人だから、陪臣なので遠慮しているんだな、と思い、

政宗「山城(兼続の官名)、手にとって見るも苦しゅうないぞ」
兼続「ご冗談を。不肖兼続は先代謙信の代より上杉家の采配を預かる身。斯様に不浄なものを触れるわけには参りません」

と、ポーンと政宗の膝元へ投げてよこした・・・なんてことがあってたまるかよ―――!。

「謙信公の代より」というが、謙信の時代にはおまえはまだガキだったろうが。少なくとも采配を預けられる身分ではなかったのだ。川中島の合戦になんて出陣していない。関東攻めもしかりだ。かろうじて謙信晩年の七尾城攻めか手取川合戦に出ていたかもしれない、という程度だ。しかし、動員名簿には出ていない。名簿にも載っていない奴が「采配」をとるだろうか?。それに兼続は、三十万石の領地を実収五十万石にする、と豪語してみごとに成功させたくらいだ。蓄財にも当然長けていたから、少なくとも金を「不浄なもの」と考えるのは不自然だ。かっこつけたってしょうがないんだから。

★謙信没後におこった家督相続、いわゆる「御館の乱」の時、「景勝様を上杉家の当主に」と家中をまとめたなんてのも嘘。『上杉家御年譜』にはそんな話はどこにも書いていないし、第一、兼続はまだ樋口家の人間だ。とにかく、なんでも兼続に結びつけてしまい、まるで兼続以外、上杉家には人物がいない、とさえ思わせてしまう。

★あ、「直江状」もあやしいね。もっともらしく全文が引用されていたりするけどさ、あれは原本や写しがないのよね。どうも後世の人が書いた偽文書のような気がしてならない。ついでながら、江戸時代に入ると、あの「直江状」を節をつけながら読み上げて銭をとる輩がいたのだそうだ。家康にかみついた点をもてはやしたのではなく、愚かしさのネタにされていたらしい。江戸時代では、兼続は石田三成同様、奸臣の代表だったわけ。

★関ケ原に負けたあともそうだ。上杉家が米沢三十万石に大減封になったので、兼続も知行五万石に減らされたが、四万石は同僚に分かち、さらに一万石の半分は家来に分かち、自分は五千石しか受けなかった、という美談。
うそつけッ。キミ(直江)が江戸幕府に出した身上書には、三万石と書いてあるじゃないか!
まあ、減ったことは事実だけどね。それに三十万石とはいいつつ、内実、上杉家の内証は江戸中期に十五万石に減らされるまでかなり裕福ではあったらしい。

★直江を称揚しはじめたのはどうも福本日南の『直江山城守』あたりが嚆矢らしい。同氏には『大坂城の七将星』という著作もある。いずれも明治以後のことなので、江戸幕府への非難も解禁、徳川氏に反抗した武将モノが受けたのだろうね。でもね、直江兼続の本当の姿、もしくは真価は関ヶ原敗戦以後にある。彼はすぐれた武将である以上に一流の民政家だ。なのに、世に出ている直江関連本は関ヶ原までしか描いていないのがほとんどだ。そこが不満ではある。

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