阿部定吉(?―1549)
大蔵。四郎右衛門定時の子。号玉蔵。松平清康に仕え、家政をとる。天文四年(1535)、守山の陣中で、子息弥七郎正豊が清康を刺殺したため、自殺を図るが、とめられる。天文五年、清康の叔父松平信定に追放された広忠の岡崎城帰還に尽力。広忠の補佐役として活躍した。広忠没後、竹千代(徳川家康)が今川家の人質となると、岡崎衆の統制にあたった。墓所は妙国寺。法名真海。
阿部大蔵 | 「この頃、陣中に我が身にかかわる風聞がひろまっておる。もとより、この身は潔白であるが、思いもよらず誅せられんともかぎらない。おまえはこの場を去り、時をみはからって、無罪を訴えでよ」 |