014「シリーズ家康影武者説・守山崩れPert2」



阿部定吉(?―1549)


大蔵。四郎右衛門定時の子。号玉蔵。松平清康に仕え、家政をとる。天文四年(1535)、守山の陣中で、子息弥七郎正豊が清康を刺殺したため、自殺を図るが、とめられる。天文五年、清康の叔父松平信定に追放された広忠の岡崎城帰還に尽力。広忠の補佐役として活躍した。広忠没後、竹千代(徳川家康)が今川家の人質となると、岡崎衆の統制にあたった。墓所は妙国寺。法名真海。

◆次に刺客について。守山で織田信秀と対陣中であった清康を襲った刺客阿部弥七郎も『史疑』によれば、「世良田二郎三郎の息がかかっていた」ということになるのだが、実在の弥七郎はどんな人物だったのだろうか。

◆彼の父は清康の家宰・阿部大蔵定吉。のちに家康が今川氏への人質として駿河へ赴くや、岡崎城を預かり、その留守を統率した忠臣である。しかし、正史のとおりとすれば、阿部大蔵は祖父を刺殺した男の父親だ。そんな男に城を任せられるものだろうか?。

◆阿部弥七郎が清康を殺害した理由は、『寛政重修諸家譜』によれば、以下のようなものだった。
清康が守山へ出陣した隙を狙って、桜井松平氏の当主松平信定が織田信秀に通じて兵を起こした。阿部大蔵はしばしば使いを送って信定を諌めていたが、守山の陣中では阿部大蔵も一味同心である、との流言がひろまった。大蔵は嫡名弥七郎を呼びよせた。

阿部大蔵「この頃、陣中に我が身にかかわる風聞がひろまっておる。もとより、この身は潔白であるが、思いもよらず誅せられんともかぎらない。おまえはこの場を去り、時をみはからって、無罪を訴えでよ」


ところが、事もあろうにその弥七郎が、主君清康を襲ったのであった。

◆阿部弥七郎は、その場で植村新六郎氏明によって斬殺されたのだが、のちに松平広忠が斬られた時も、刺客の岩松八弥を斬ったのも彼であった。主君殺害現場に二度も居合わせ、二度とも刺客を斬った男。これは偶然であろうか?。

◆弥七郎の父・阿部大蔵は息子が清康を誤って殺した(と、学術書では概ね「誤殺」と書かれている。暗殺とは書かれていないことが多い)罪を嘆いて、自身も自刃しようしたが、とめられて、一命を助けられたのはともかく、そのまま家老の地位にとどまっているところが不思議である。殺された清康があまりにも無道な殿様であったのならば、まだしも、父への謀反の噂に憤って、主君を「誤殺」したのであれば、なおさらのこと、父大蔵はただではすむまい。事件前に陣中に「阿部大蔵も織田や桜井松平と通じている」などという風聞がひろまっていたというのに、いざ事件が出来しても、阿部大蔵の身に何事もない、というのはおかしいではないか。そして、殺された清康は松平家の中興の英主とまでいわれているのだ。

◆どう考えても不自然だ。ならば、その逆を考究する余地はあるのか。

◆そもそもこう考えたらどうだろうか。『史疑』にあるように阿部大蔵は世良田二郎三郎の腹心だった。植村新六郎もひょっとしたら、二郎三郎側の人間であったかもしれない。阿部大蔵は二郎三郎から松平元康(正史では清康)謀殺をもちかけられ、守山の陣中で息子・弥七郎や植村新六郎に襲撃させた。が、元康方の抵抗によって弥七郎が落命。思わぬ結果に二郎三郎は阿部大蔵をなぐさめ、一命を助けた。

◆もちろん証拠もないが、植村新六郎はのちの松平広忠謀殺事件にも「参加」したのではなかろうか。で、この時は「口封じ」のために刺客岩松八弥を斬殺した・・・。

◆ところで、清康や広忠を斬った刀、また、家康の子信康を介錯した刀も、いずれも村正であったという。家康自身もこの村正によって負傷したことがあるらしい。よって、家康自身が嫌悪するようになり、周囲はその使用をはばかった、という。このことから、徳川家に祟りをなす「妖刀」といわれるようになった。幕末期には、倒幕側の志士たちがこの村正を用いたという話もある。村正は、伊勢桑名の刀工で、初代は南北朝期に活躍したとされるが、現在、作品で確認できるのは室町後期からだという。しかし、要するに村正という刀が、現在の車でいえば、カローラとかサニーとか、一般に普及しているためにおこった偶然ではなかろうか。

◆さて、守山崩れという凶事で、主君を失った松平勢であるが、清康の祖父長親、弟の信孝らの奮戦によって織田勢の追撃をふりきり、無事に三河へ退却することを得た。しかし、間もなく岡崎城は前項で述べたとおり、桜井松平の信定(清康の叔父)によって奪われ、嫡統・広忠は伊勢へ亡命したのである。しかし、広忠が今川義元の後援のもと岡崎城に復帰するや、結局、信定も赦されているのだ。実に寛大なものである。

◆阿部氏は徳川譜代の中でも名家のうちに入る。しかも、その一族からは文治派の能臣が多く出、江戸幕藩体制が定まった後に活躍の場がひろがった。しかし、それらのいずれもが阿部大蔵と弥七郎の血筋ではない。阿部大蔵の家は弥七郎のあと嗣子がなく家は絶えた。わずかに弟定次と井上家を継いだ妾腹の子清秀の血統が残った。いずれにしても、阿部大蔵定吉。この歴史的にはほとんど無名に近い男が、松平氏の成り立ちと家康の素生についての鍵を握っている・・・。


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