013「シリーズ家康影武者説・守山崩れPert1」



松平清康(1511―1535)


次郎三郎。三河岡崎城主。徳川家康の祖父。戦国初期、奥三河の松平郷より興って、南部へ進出、松平氏の勢力基盤を築き上げ、大永三年(1523)、家督を相続。翌年、安祥城から移って岡崎城に拠り、以後、三河をほぼ制圧した。さらに尾張進出を図ったが、天文四年(1535)、守山の陣中で家臣阿部弥七郎によって殺害された(守山崩れ)。三河国大樹寺に葬られる。法名年叟道甫。

◆最初にわたしの立場を言っておこう。現在のところ、「影武者説」の肯定派ではない。ただし、歴史的興味からすれば、「影武者だったら面白いなあ」ぐらいに考えている。学者でなくてよかったァ、と思う瞬間である(笑)。

◆家康が本物から影武者になった(という言い方は変だが)、つまり本物が死んでニセモノが本物を装いはじめた時期は、@三河時代A関ヶ原B大坂夏の陣など諸説ある。@がもっとも早くて、明治時代に村岡素一郎の『史疑徳川家康事蹟』が民友社から出た。帝大の重野博士(今ならば、さしずめ東大史料編纂所所長か?)が前文を書いた。この本がほとんどすべての家康影武者説のネタ本だ。南條範夫の『三百年のベール』(批評社)と『願人坊主家康』(光文社文庫)が代表。白土三平の『カムイ伝』(小学館)、畏友・司悠司氏の『忍者太閤秀吉』(中央公論社)もあげておこう。Aは、あらためて紹介するまでもないだろう、隆慶一郎の『影武者徳川家康』(新潮社)。隆氏は「徳川実記」をネタ本に使用しているが、Bが加賀淳子『消えた矢惣次』など。このうち、Bは大坂地方に「負傷した家康が担ぎ込まれた農家」とか「家康の墓」などの言い伝えが残っているし、@にも「いかにもそれっぽい」言い伝えが収録されている。

◆と、いうわけで、Pert1は、まず、『影武者徳川家康』の原点となった『史疑徳川家康事蹟』から辿ってみたい。

◆松平氏の歴代で実在が確認できるのは三代松平信光からだ。つまり、書状とかの物的証拠があって、学者先生たちも実在を認めているというか、まあ、たぶん実在しただろうというわけ。初代徳阿弥親氏と第二代泰親(親氏の子または弟という説あり)もあやふやな人物で、ことに親氏にいたっては、没年が諸説によって百数十年のひらきがあるのだ。このような人物が果たして本当に実在したのだろうか?。

◆『史疑徳川家康事蹟』というのは、おそらく最初に家康影武者説、というよりも「松平元康・徳川家康別人説」を唱えた奇書だ。諸国を流れてきた一介の願人坊主江田松本坊がお大という娘とデキて男子が誕生。が、その少年はあろうことか又右衛門という男によって「銭五貫」で駿府の酒井常光坊という者に売り飛ばされてしまう。長じて酒井のもとを出奔した子供が世良田次郎三郎と名乗り、不良少年たち(徳川家臣団の母体)を従えて、松平家の当主にちゃっかりおさまる、という内容だ。

◆主君におさまった世良田次郎三郎に当然、反発した者もいたはずだ。しかし、江戸時代の御用史家がそんな都合の悪いことを書くはずがない。しかし、それと匂わせる事件はある。三河一向一揆である。この時、実に家康(世良田次郎三郎)の家臣の半分(たとえば本多正信、渡辺守綱など)が一揆側についた。結局、一揆は敗れたが、これはきっと世良田次郎三郎が自分の家督に反対する古くからの松平家臣たちを粛正したのだ。(いいのか、こんなふうに決めつけて・・・笑)

◆だが、松平氏(徳川氏)の秀吉以上に奇異な素生は、『三河物語』にもその痕跡がほのみえる。「御徒然さのつれづれにいたらぬ者に御情おかけなされ」た徳阿弥親氏。要するに土地の娘に手をつけたわけだ。高野聖や願人坊主などはうっかり宿を貸したら、妻や娘を寝取られる、といわれた。「宿かろう」とふれながら歩くので、これが転訛して「夜道怪」というのが高野聖の別称になったりした。

◆大久保彦左衛門の『三河物語』。この彦左衛門の著書も江戸時代は門外不出とされた。この本には、家康の前の八代の松平家当主について記述されている。松平清康と徳川信康は評価が高い。特に、清康は、生きていれば、三河はおろか天下を窺うほどの英主だった、などと書いている。

◆守山崩れの黒幕は諸説あるが、この事件によって得をしたのはいっぱいいるわけでして。

◆(筒井康隆風に)十八松平、いってみようかゴー♪竹谷松平・安城松平・形原松平・大草松平・五井松平・能見松平・長沢松平・深溝松平・岩津松平・大給松平・滝脇松平・宮石松平・福釜松平・桜井松平・東条松平・藤井松平・三木松平、そして徳川家となる岡崎松平。一応、家康以前に松平氏を称していた家であるから、のちの越前松平氏や久松松平氏などは入らない。清康殺害に関してかぎりなくクロに近い松平信定は桜井松平氏だ。

◆のちに徳川家に祟りをなす妖刀村正、などという逸話も生まれた清康・広忠などの殺害事件は、実は当主松平元康(!)が家臣に殺され混乱する松平家の投影だというのだ。錯覚してしまうかもしれないが、清康・広忠は若くして死んだため、松平元康(すなわち家康)の活躍時期とはそれほど隔たっていないのだ。

◆ところで、この『史疑』は初版が出たきりで絶版になってしまう。徳川家の筋から買い占めや出版差し止めがあった、という話が、まことしやかに伝えられているばかりだ。もっと現実的な原因としては、以下のようなことが考えられる。


説明が必要だろう。『史疑』を出した民友社の徳富猪一郎が貴族院議員に選出されるよう運動していたのは事実だが、当時、貴族院というところは、旧幕臣や藩閥派の巣窟だったといってもよい。そんなところへ「徳川氏は下層階級であるささら者の出身だ」などと書かれた本を出版しつづけていたらどうなるか。貴族院からも圧力がかかることは容易に察せられようし、徳富猪一郎も千載一遇の好機を1冊の本のために棒にふるようなことはしたくないに違いない。
もうひとつは、長州の伊藤博文が中間から成り上がって首相にまでのぼりつめた事実を、乞食坊主から征夷大将軍へと出世していく物語に仮託し、諷刺したものだ、とする見方である。これは最近になって唱えられた説で、当時の政府筋から圧力がかかったのではないか、というものだ。

◆なお、徳川家康影武者説に批判を試み、「生涯の快事だった」と言った歴史学者がいる。桑田忠親氏だ。この批判については、「いただけない」とする意見も出ている。内容を知りたい方は、氏の著書『戦国史疑』(講談社文庫)を参照されたい。



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