012「異動命令、女房の意見を聞いてきます」



板倉勝重(1545―1624)


甚平、四郎右衛門、従四位下伊賀守、侍従。幼時に出家したが、父好重、弟定重が戦死したため、天正九年(1581)、還俗し、徳川家康に仕える。天正十四年、駿府町奉行となり、徳川氏の関東入部後は関東代官、小田原地奉行、江戸町奉行を兼任した。慶長六年(1601)、京都奉行ついで所司代・山城国奉行に任じられ、朝廷や西国大名の監視・折衝にあたった。寛永元年(1624)、京都堀川で没。法名香誉宗哲。

◆板倉勝重はもともと坊主だった。父と兄が戦死したため、板倉家が絶えちゃうってんで、還俗することになった。こういうスペアタイヤみたいな登場の仕方をしたのだが、もとより戦のことなどはあまりわからない。おそらく戦死した弟のほうが、武将として見込みがあったのだろう。

◆板倉勝重は、駿府、江戸、京都、と三つの都市で奉行を勤めたが、今で言うならさしずめ、PKOか。駿府は滅亡した今川氏の城下町であったので、建設途上の町。しかも、数年経ずして徳川家は関東へ移封となり、勝重も配転。与えられた大仕事が江戸の町づくり。江戸も滅亡した北条氏の支配地であったので、新参者はさぞやりにくかったろう。

◆その勝重にまたもや配転の知らせがきた。関ヶ原の合戦で家康が勝利した、その翌年のことである。京都所司代として、まだまだ豊臣方の勢力圏である畿内へ行け、というのだ。今の世で言うなら、物騒な国へ赴任命令が出たようなもの。勝重は悩んだ挙げ句、家康にこう答えた。

勝重「あの、うちのものに聞いてきます」
家康「一々、女房の許しが必要なのか?」

◆だらしがないやつ、と思うのはまだ早い。帰宅した勝重は妻に京都へ行くことを話した。

妻♀「あーら、あなたがお決めになればよろしいじゃございませんこと」
夫♂「いや、京都奉行といえば重職じゃ。重職について身を滅ぼす原因は妻と子にある」
妻♀「口出しなどいたしませんから、ぜひお受けなさいませ」
夫♂「おまえがそれほど言うのならば・・・」(勝重、家康のもとへ戻ろうとする)
妻♀「あら、ちょっと待って。袴の裾が乱れております」
夫♂「ほれほれ、それがいかんのじゃ。出仕する勝重はもはや、おまえの旦那様ではないのダ」

まあ、要するに公平無私の人柄を説いたエピソードであったろう。

◆テレビなどで板倉勝重が京都所司代として時折、登場することがあると、たいてい豊臣方を陥れようとする陰険な役である。しかし、実際の勝重は京都の公家にも「うけ」がよかった。キリシタンにも寛容だった。無論、迫害する立場なのだが、理不尽なことはしなかったらしい。このことは、レオン・パジェスの『日本西教史』にも出ている。

◆名裁きも数々残している。その中にはのちに大岡越前のエピソードなどに取り入れられたものもある。「三方一両損」などはその代表だ。ある人が道端で三両拾った。さっそく奉行所へ届けたところ、落し主が見つかった。けれども落としたのは自分の落ち度二両は受け取れない、という。拾ったほうもわざわざ奉行所へ届けたくらいだから、ハイそうですか、と受け取ろうとはしない。押し問答の末、勝重がもう一両を用意した。

勝重「どうじゃ。これで四両になる。なかよく二両ずつ分けるのじゃ」

落し主は、三両落として二両戻ったから一両の損。拾い主は三両拾って二両貰ったから一両の損。板倉勝重は一両出したから、三者一様に「一両損した」わけになる・・・。すなわち、三方一両損。(星新一のショートショートにこれをパロった作品があるので一読をすすめる)

◆もちろん、これらの話についても『板倉政要』などの資料に見えるだけで、実際に勝重がこんな具合に裁いたかどうかはわからない。おそらく後世の作り話だろう。しかし、大岡越前の元ネタになっていることだけは確かだ。

◆京都所司代を退くにあたって、徳川秀忠から下問があった。後継者の指名である。勝重はちょっと考えてから返事をした。

勝重「エート、わが息子ならば、どうにか職務を全うできると思います」

推薦されたのが、勝重の嫡男、第二代・板倉周防重矩であった。彼ならば、ずっと自分の仕事ぶりを見てきたので、なんとかつとまるでしょう、と推薦したのだった。

◆重矩は父の期待どおり、立派につとめて、「世にありがたき奉行」と賞賛された。



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