011「汁を二度かけて何が悪い!?」



北条氏政(1538―1590)


左京大夫、相模守。相模国小田原城主。戦国大名後北条氏の四代当主。室は武田信玄の女(黄梅院)。永禄初年、家督を相続。父氏康の後見を得て、上杉謙信、里見義弘、佐竹義重らと戦い、北関東へ勢力を伸張。自ら陣頭指揮しての武功こそ少ないが、謙信・信玄を退けた二度の小田原籠城戦、関宿争奪の末、武蔵の領有を確実なものとした。永禄十二年(1569)、氏康の主導によって謙信と結んだが、人質の変更など謙信に譲歩を迫る一方、盟約に書かれた領土割譲を先延ばしにするなどのしたたかさも見せた。父の死後、謙信と断交。元亀二年(1571)、武田氏と同盟した。のち武田勝頼と敵対。しばしば黄瀬川において対陣。天正八年(1580)、氏直に家督を譲渡した。天正十年、本能寺の変直後、滝川一益を神川の戦いに破る。その後、羽柴秀吉の上洛督促にも応じず、主戦派として小田原籠城を指揮したが、上方の大軍に抗しきれず、降伏。弟氏照とともに自害。墓所は箱根の早雲寺。

◆先日、お昼ご飯を食べた際、間違えて「御弁当」に加えて「ご飯」を単品で注文してしまった。いつも一品料理にご飯という組み合わせだったので、そのくせが出たのだ。ご飯が極端に多くなってしまったが、まあ、なんとか平らげた。わたしは出されたものを残すのが嫌いだ。立食パーティなどはつとめて出ないようにしている。その日もおかずに比べて分量の多いご飯を相手に悪戦苦闘しつつ、きれいに残さず食べたところ、同席していた女性から
「三角食べが上手ね」
と言われた。

◆三角食べ、は口中調味を基本とする日本食独特のものだ。ご飯に汁をかけて食べるのも、要はまぜこぜにして口の中へ放り込むためだ。

◆ある時、北条氏康と氏政の父子が陣中で食事をとっていた。氏政はご飯に汁をかけて食べるのが大好きである。この時も、一度かけてはうまそうに食べ、しばらくしてからもう一度かけて食べおえた。その様子を見ていた氏康は北条の未来を憂いたという。食事などは毎日とるものなのに、汁をかけるあんばいが分からないようでは、人の心を推し量ることなど無理だ、と言うのである。

◆もうひとつ食べ物の話題を紹介しよう。出典は「甲陽軍鑑」である。
氏政がある戦の途上、腹が減ったので傍らの麦畑を指し示した。
「麦飯にして持ってまいれ」
と言うのである。

◆この話を聞いた武田信玄は大いに笑った。
「氏政という人は大身のせいか、かようなものを食したことがないのであろう。麦というものは、刈り取ったあと、穂をこき落とし、こなして、干して、ついて又干して、その後で水を注いでさらにつく。日にさらし、水にひたしてよく煮て、はじめて麦めしになるものなのだ」
信玄は氏政のモノ知らずを笑ったわけだが、それにしても嫌味な言い方だ。

◆氏政には暗愚という烙印がおされている。そういったエピソードが多い。エピソード中に登場した氏康、信玄は名将と呼ばれている。彼らを凡将・愚将と呼ぶ人は少ないだろう。少なくとも氏政の愚かさを指摘する者が暗愚であってはまずいからだ。

◆しかし、この氏政は本当に暗愚だったのだろうか?。汁を二度かけるのは、いっぺんにかけてはこぼれてしまうために気を配っていたためかもしれない。麦飯を知らなかったのは、信玄の言う意味とは違うが、氏政が大身だったからではないのか。伊豆相模の海や関東の沃野に恵まれた北条領では麦飯など珍しかったのではないか。少なくとも、海も持たず、猫の額のような甲斐に生まれた信玄とでは育った環境がまるで違うのである。もしも、徳川家康が甲州の軍法を継承しなければ、信玄の評価もまた違ったものになったと思うのだ。

◆北条氏政が暗愚と評される原因は、つきつめて言えば、小田原攻めの敗北によって家をつぶしてしまったことによる。たったそれだけだ。秀吉政権や上方の情勢に対する情報に乏しく、自身過剰で状況判断を誤ったことは否定できないが、信玄や謙信などが同じ立場にたったとしたら、抗戦をあきらめて秀吉の軍門に下るだろうか?

◆家康や信玄のように一度や二度の敗戦ではさして評価に傷はつかない。最後にこけた場合だけ、「愚将」のレッテルを貼られてしまうのである。今川義元、朝倉義景、武田勝頼しかり。

◆ところが、信長は「敗戦」ではないから、どうもこのレッテル貼りから免れているふしがある。本能寺の変こそ、大ポカである。業半ば、ということであれば、どいつもこいつも似たようなものだ。

◆わたしが考えるに、たとえ最後を全うできなくても、それまでの業績を差し引いてもまだ余りある魅力を有していれば、低い評価は与えられない、ということではないだろうか。今川や朝倉には、要するに「魅力を感じない」ということであろう。ゲーム感覚でパラメータがどうのこうの、という輩とさして変わらない。

名将とは?、愚将とは一体何だろうか?



*補足調査
汁をご飯に二度がけした話は、どうも民話になっているようです。故・宮本常一氏の「家郷の訓」(岩波文庫)には、北条氏政のケースと全く同じ話が、山口県の周防大島では毛利輝元と元就の話として伝承されていた(要するに昔話としてあった)ことが書いてあります。たぶん、「馬鹿な子供が汁をかけるのをみて親が激怒した」というような話がもともとあり、それが各地で家をつぶした大名にくっついてしまったのではないでしょうか。僕自身は北条氏政は領国経営などうまくやっており、さして暗君とも思えないのですが、やはり時代を見抜けず歴史に汚点を残し、その後やたらに悪口が言われるようになったのでしょう。(X-File特別調査官:中根大輔)


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