008「たったひとつの冴えたやり方」



長宗我部信親(1565―1586)


千雄丸、弥三郎。元親の嫡子。母は石谷兵部大輔光政の女という。室は石谷頼辰(美濃斉藤から養子)の女。天正八年(1580)、織田信長の偏諱を受けて信親と名乗る、という。「身の丈六尺一寸、色白くし柔和にして詞寡くて礼譲があって、しかも厳しくはない。戯談しても決して猥がましくはない」と評され、三尺五寸の差料を跳躍しつつ抜刀する技量の持ち主であったという。父元親に従い、阿波攻めに参加。のち、秀吉の四国攻めに際しては、岡豊城を守った。天正十四年、九州征伐に従軍し、戸次川の合戦で戦死。法名天甫寺常舜禅定門。

◆この人だけはもう少し長生きさせたかった、と思う人物のひとりに長宗我部信親がいる。彼は土佐の太守長宗我部元親の嫡男に生まれ、二十二歳の若さで戦場に命を散らした。天正十三年の長宗我部征伐、そして翌年の九州攻め従軍、とこの若者が歴史上にあらわれたのは、ほんのわずかな期間であった。

◆「の〜ぶ〜ち〜か〜」と四百年あまりたった今でも長宗我部元親の悲嘆が聞こえてきそうだ。実際、戸次川以後の元親は魂が抜けたようになってしまい、家中も騒動が絶えなくなった。家中分裂の危機をはらんだまま、長宗我部氏は関ケ原合戦を迎え、滅亡へとつきすすんでいく。

◆すべては仙石権兵衛(秀久)が悪い。何しろ、無謀な作戦をたてた上に、長宗我部元親の反対を退ける理由が「昔、四国戦線でさんざんな目にあったことから意趣をふくんでいた」というのだから、あきれる。しかし、信親はこまかいことにこだわらず、「こうなったからには、武門の意地をかけて立派に果てましょう」と覚悟を決めてしまう。大らかな人柄が窺えるではないか。

◆当時の戦況云々、というよりも戸次川渡河を主張した本人が島津の伏兵を見て仰天し、九州から淡路島まで逃げてしまうとは言語道断だ。敵中に孤立した長宗我部、十河の諸隊は優勢な島津軍と戦って全滅する。おまけに戦死した十河や信親の家が断絶して、仙石だけが大名家として残ったのは許せない。感情論と言われてもいい。こいつを生かしておいた(所領没収・高野山で謹慎)のは、秀吉がよほど気に入っていたのであろうが、これに関しては、「眼鏡ちがい」といわざるを得ない。あとは徳川にべったりだものね。「二君にまみえず」とは江戸時代の風だが、仙石の場合は節操がないというか。まあ、だいたい秀吉子飼いの武将はちょっと「足りない」連中が多いが・・・。

◆せめて仙石も死んでいればね、まあしょうがないかな、とも思うのだけど。

◆信親の英姿については、『逆転の戦国史』(藤本正行・著/洋泉社)を参照されたい。戸次川出陣の図とされるものが掲載されている。原画はなぜか加賀・前田家に伝わる。もっとも画中の人物は前田利家であるともいわれており、信親であるという確証はないのだが。

◆じゃあ、信親が生きていたら、長宗我部家は存続していたかというと、これもあやしい。信親の性格上、自家の保存ということよりも豊臣家に殉じてしまったのではないか。しかし、西軍に与みした場合でも、津野親忠(徳川派)を謀殺して申し開きの機会を逸した盛親のような振る舞いはしなかっただろう。案外、信親を隠居させ、津野親忠を養子とし、当主とするシナリオも考えられたであろう。(島津氏の処分がこれにあたる)

◆森鴎外の長編叙事詩『長曽我部信親』(明治三十六年)は戸次川畔で若い命を散らす信親の姿を描いたものだ。
中にも大将信親は、
唐綾縅の甲を着  蛇皮の冑を戴きて
馬を縦横に馳せめぐらし
四尺三寸の長刀を
閃く稲妻  石撃つ火と
身まがう迄に打ち揮い
敵八人を切り伏せつ

◆場違いかもしれないが、長宗我部信親の最期に思いを馳せる時、わたしはジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの短編SF『たったひとつの冴えたやりかた』(SFマガジン短編部門ベストワン)を思い出す。筋はここでは触れないが、やはり若者が絶望的な状況下に立ちいたった時、標題のセリフを言って身を捨てて挑んでいく――そういう物語だ。信親もまた、戸次川のほとりで仙石秀久の無謀な作戦に身を委ねなければならなくなった時、ひとり快然と口にしていたとしてもおかしくはない、と思うのだが。
「これがたったひとつの冴えたやり方」――と。

◆将来を嘱望されながら悲劇的な死を遂げた青年武将の代表といえるだろう。


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