006「仔鹿のバンビはかわいいな」



多聞院英俊(1518―1596?)


奈良興福寺多聞院の学侶。大和国の土豪十市氏の一族か。享禄元年(1528)、母の勧めにより出家。『多聞院日記』の筆者のひとり。英俊の筆になるものは、天文三年(1534)から慶長元年(1596)にいたる部分であり、この頃、亡くなったものと考えられる。同日記は、当時の政治・社会・文化を知る上での一級史料である。信長の甥・津田信澄を「一段の傑物」と評したことでも知られる。

◆奈良へ出かけた折、興福寺で「多聞院日記」を特別陳列していた。戦国ファンには興味深いものだが、とはいえ、興福寺などという国宝・重文級の美術品が所狭しとひしめいている場所であるため、あやうく出口直前で、そう言えば見ていないことに気づき、「どこだったっけ?」と来た通路を戻るはめになった。

◆修学旅行の中学生たちの群れが行き過ぎると、あとはすいててじっくり見ることができた。東京などで「興福寺国宝展」をやっていたが、すごい人だかりであったことを思い出す。

◆さて、「多聞院日記」だが、英俊の原本は焼失し、現在見ることができるのは、江戸時代後期の写本である。今回は信長、秀吉関連の興味深い記事を選んで展示されていた。

◆まずは、足利義輝の暗殺、松永久秀による東大寺大仏殿焼き討ちにふれている。天正二年(1574)、蘭奢待を拝領する信長の様子を伝えている。蘭奢待は「惣ノ長五尺、丸サ一尺ホトノ木也」と記している。(三月二十八日条)

◆この希代の名香にも飽き足らなかったのか、この翌年、信長はなんと「神鹿」を所望。「神鹿」ともったいぶって書いてはいるが、要するに、東大寺などの周辺にたむろし、観光客のサイフをはたかせて「鹿せんべい」なるものを買わせ、いただくことがさも当然のように群れ集まってくる、あの鹿ちゃんたちだ。英俊、「前代未聞ノ珍事」と寺の権威が地に墜ちたことを嘆いている。(三月二十一日条)しかし、信長はなぜ鹿ちゃんなんか連れてっちゃったのだろうか?。

◆信長は『信長公記』によれば、天正三年三月二十日は、相国寺において公家たちと宴会を開いていた。今川氏真が蹴鞠を披露したのもこの時のこと。しかし、翌日の記事はないため、「鹿料理」に化けてしまった可能性も否定できない(涙)。嗚呼、バンビの運命やいかに!?

◆ところで、平城山公園の鹿ちゃん(山中鹿介のことではない)ですが、わたしめも幼少の砌、修学旅行で記念写真を撮ったおぼえがありまする。鹿せんべいを持ってたやつがいて、シャッターがおりた時に、われわれの前に鹿が群がってしまう有様であったことを、おぼえておりまする。先日、行ったときには、「発情期なのでご注意ください」とのことであった。

◆ところで、秀吉はもっとヒドイ。天正十九年の正月早々、鹿が六匹も捕られてしまい、さすがの英俊もプッツンきれてしまったのであろうか、「まれにみる縁起の悪いこと」と書いている。(正月四日条)

◆あ、また、妄想が・・・。多聞院英俊が、毎日、鹿せんべいを食べさせて育てていた鹿が荷車に載せられ、ゴトゴト坂道を下ってゆく・・・そりゃ、「ドナドナ(注)」だって!

(注)あ、知らない方いますか?ドナドナの歌。「ある晴れた昼下がり、市場へ続く道、荷馬車がゴトゴト、仔牛を乗せてゆく〜。かわいそ〜な仔牛、売られてゆくよ〜。悲しそ〜な瞳で見ているよ〜。ドナドナ、ドナ、ドナ・・・」っていうんですけど・・・。小学校の音楽の教科書に出てくるんですよ。

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