毛利光房が九州で陣没した後、その嫡男煕元があとを嗣いだ。
永享九年(1437)、京都で将軍足利義教とその弟義昭の対立が表面化すると、煕元はただちに上洛、大和に逃れていた義教の命を受け、義昭の軍を破った。以後、煕元は土岐持頼討伐、将軍足利義教を殺した赤松満祐討伐、と次々に軍功をあらわしていく。
煕元の子松寿丸は宝徳元年(1449)、山名是豊の偏諱を受け、豊元と称し、宝徳三年に父の所領を譲られた。豊元は山名軍とともに、畠山義就と戦った。
折しも大陸貿易もからんだ伊予河野通春討伐に、細川勝元は豊元に大内政弘を討つよう依頼した。が、幕府は毛利氏の所領の一部を取り上げ、これを麻原、宍戸らの地頭に与えたため、煕元・豊元父子は次第に不信感を抱いていく。
*応仁の乱
応仁の乱では、当初、豊元は東軍細川勝元に属していたが、福原広俊の意見を容れ、西軍の大内政弘に従うことに決めた。足利義政、細川勝元は安芸守護武田国信に命じて豊元を討たせようとしたが、逆に豊元は中国における東軍勢力を破り、大内政弘から安芸西条(一千貫)、山名政豊から備後伊多岐、重永、山中(三千貫)を与えられるにいたった。
通常、応仁元年(1467)に管領細川軍(東軍)と山名軍(西軍)が武力衝突をおこし、両軍の主将山名宗全、細川勝元が相次いで死去し、文明九年(1477)にいたって西軍が軍を解散するまでの十年間の抗争を指すことが多い。原因は畠山家の家督相続に端を発し、畠山政長を支持する細川勝元、畠山義就を推す山名宗全が全国の守護大名に参陣を促し、戦火を拡大させたことにある。さらに、細川氏と大内氏の日明貿易における利権争い、将軍足利義政と室日野富子との確執、地方における新旧勢力の交代、といった要素が複雑にからみあったことも乱の長期化を助長した。しかし、ほとんどが相手陣営への焼き討ちなどに終始し、主力同士の合戦はなかった。
文明八年(1476)、豊元は三十三歳の若さで没した。わずか九歳で家督を嗣ぐことになった弘元(元就父)にかわって、重臣坂広秋父子が政務を執ることになる。
やがて成長した弘元は大内政弘に協力し、吉川経基とともに石見を経略し、父豊元の遺領の掌握につとめた。しかし、明応八年(1498)、大内政弘の子義興が管領細川政元に背かれた足利義稙(室町幕府十代将軍)を保護するという事件がおこった。弘元は大内・足利義稙より協力を要請されたが、一方、幕府からも足利義稙の討伐命令が出された。板挟みになった弘元は嫡男興元(8)に家督を譲り、多治比に隠居し、永正三年(1506)、正月同地猿掛城で没する(39)。
当主興元は間もなく大内義興に従って上洛したため、猿掛城には多治比松寿丸(のちの毛利元就)ただ一人が残された。しかも父の遺してくれた所領多治比三百貫は、後見役井上元盛によって横領されていたのである。
『陰徳太平記』に代表される毛利家軍記は、その多くがこの足利義稙の都落ちから語りおこしている。松寿丸にとっては、戦国非情の荒波に揉まれる最初の体験であった。