毛利氏の祖・季光とその時代


大江氏の中で、はじめて毛利姓を称したのは、広元の四男季光である。広元の遺領のうち、相模国愛甲郡毛利庄(現・神奈川県厚木市)を相続したことによる。現在でも南毛利といった地名や季光居館跡などが残っている。
季光は、承久の乱の折には、北条泰時に従って入京、美濃、山城などで宮方と戦った。

*承久の乱
承久三年(1221)、後鳥羽上皇が倒幕のため、洛中に挙兵した事件。約一カ月後、幕符軍が入京し、終息を迎えた。この時、北条時房・泰時は京都に駐留、事件関係者らを厳しく処断し、六波羅探題の起因となった。上皇は隠岐へ流され、鎌倉幕府の地位が確立した事件であった。

しかし、大江一族は広元の嫡男親広が宮方に加わったため、骨肉相はむ結果となった。兄の失脚後、季光は関東評定衆として活躍したが、宝治二年(1247)六月、三浦泰村の乱に巻き込まれ、鎌倉法華堂において広光、光正、泰光ら三人の子とともに自刃した。

*三浦泰村の乱
毛利季光の室は三浦泰村の妹であったため、宝治元年、泰村の挙兵に際して味方についた。しかし、北条方と戦って敗れ、三浦一族は鎌倉法華堂にて自害した。

一族の中でたった一人、四男経光のみは越後佐橋荘に在国していたため、処分を免れた。
経光は、父の遺領安芸吉田を併せ毛利の家名を保つことができた。経光の所領のうち、嫡男基親が越後北条(きたじょう)を相続し、越後毛利氏の祖となる。戦国期に上杉氏にしたがって活躍する北条、安田、毛利などの諸氏がこの流れを汲む。

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