長宗我部氏関連スポット

「盛親御敵に与致し候科に依って、住国を召し放され候事、
力及ばず候。さあらば半国宛て行はれ候へ、
もしこの儀叶はざらんに於ては、全く城を渡し候まじ」(土佐物語より)

一領具足の碑いちりょうぐそくのひ

関ヶ原の敗戦によって、長宗我部氏は土佐一国を没収されることになった。一領具足の代表者らは盛親への土佐半国分与を主張して浦戸城明渡しを拒んで籠城抵抗した。「浦戸一揆」といわれる事件である。が、ついに慶長五年(一六〇〇)十二月五日、桑名一孝らの策略によって浦戸城は開城・接収された。一領具足の犠牲者は竹内惣右衛門以下二七三名にのぼり、その首は塩づけにされて大坂の井伊直政のもとへ送られたという。JR高知駅堺町から桂浜行きバス地蔵前下車。


海に面した地に、六体地蔵をはじめ、斬首された二七三名の胴体を埋めた石丸塚(石丸神社)、一領具足の碑などが建つ。この地は、一領具足の代表者たちが集まって評定しているところを襲撃された場所であると伝えられている。