本殿−−−−−御三家銅灯籠−−−−−唐門
唐門(唐破風造り四脚門)
慶安4年(1651年)建築。明治40年旧国宝指定。 総金箔の門で、両側上部にある松竹梅と錦鶏鳥の透彫は殊に室町、桃山の技術を集大成したものとして評価されている。柱内外4額面には、不忍池の水を飲みにいったという左甚五郎作の昇り竜、降り竜があり講談などで馴染み深いものである。
透塀
慶安4年建築。明治40年旧国宝指定。総金箔の門であったが、国の予算がないまま現在下地漆塗りに留めている。上下にある彫刻もすべて極彩色であり、上欄には花木山禽、下欄には水草鳥魚をあしらい、その数約300枚あったが、戦後進駐軍の土産に持ち去られ現在は約250枚程となった。
拝殿
慶安4年建築。明治40年旧国宝指定。間口7間、奥行3間で日光に次ぐ結構である。幣殿、本殿と共に銅板葺き屋根であり、日本には二つしかない。(中尊寺光堂)金色殿として有名である。三方の浜縁は総黒漆塗りである。天井は一尺桝目の格天井で、中央正面にある「東照宮」額は後水尾天皇真筆で純金である。壁画は狩野探幽の筆になるもので、桃山期の画風を彷彿させる華麗なものである。
幣殿
慶安4年建築。明治40年旧国宝指定。将軍家の間で、長押上の松に鷹、鳳凰に牡丹の彫刻や、狩野派の壁画が名高い。
本殿
慶安4年建築。明治40年旧国宝指定。内部は前後に格桟戸に依って敷切られ、後部は、金梨地の浜縁に巡らされた総金箔の社殿によって占められている。ここに家康公、吉宗公、寒松院(藤堂高虎)、天海僧正の御神体が安置されている。本宮を三所大権現称していたのも、ここから起っている。
表参道大石鳥居
寛永1010年(1633)酒井忠世建築奉納。昭和17年旧国宝指定。関東大震災の析にも微動だにしなかった程、基礎工事が完全であるというので、建築界の驚異の的となっているものである。
池の瑞参道石鳥居
寛永3年黒田忠之奉納。江戸城内紅葉山東照宮にあったものを、明治7年5月当宮に移築したものである。
水舎門
慶安4年阿部重次建築奉納。社前右側にあった御水舎の上屋だけを昭和39年に門として移築した。
御水舎
明治6年、新門辰五郎奉納。男伊達として江戸市民の崇敬を受けていた辰五郎は、町火消しの棟梁で、特に将軍家の親任が篤かった。娘の芳は徳川慶喜の愛人だった。
鋼灯籠 慶安4年諸大名奉納。
昭和17年旧国宝指定、唐門両側6基は御三家奉献になったもの。このうち社殿向って左側手前の1基だけは寛永5年の銘があり、藤堂高虎(寒松院)が、家康公十三回忌の折に神前に寄進したもので型も南円堂型でおもしろい。
>寄進者に注目<
◆◆慶安4年(1651)銅灯篭寄進者名の中には、歴史上の武将名が沢山あり、江戸時代が身近になります。◆◆
銅灯篭唐門前
御三家と徳川頼房の長男頼重が唐門前に灯篭を寄進しています
紀伊國主従二位権大納言源頼宜
正三位権中納言源頼房
尾張國主参議従三位兼右近衛権中将源光義(義直)
[石灯篭]高松国主従四位下侍従兼右京太夫源頼重
銅灯篭
大名の家格である国主が銅灯篭を寄進していることが分かります。 [藩主が元服前で官位が無い]
加賀能登越中三國主菅原姓松平犬千代丸 (藩主8歳)
生没:寛永20年(1643)−享保9年(1724) 前田家5代藩主綱紀の元服前。前田氏は菅原道真の後裔といわれ、菅原氏を称している。家紋も梅鉢を用いています。
肥後国主細川六麿 (藩主10歳)
生没:寛永18年(1641)−正徳2年(1712) 当主10歳の元服前 後の五代藩主綱利
防長二州主大江姓松平千代熊丸 (藩主12歳)
生没:寛永16年(1639)−元禄2年(1689) 藩主元服前、後の綱広 。 毛利氏は、系図によれば天穂日命を祖としている。のち野見宿禰などを経て音人にいたり大江氏を称するようになったという。
米澤城主藤原姓上杉氏實勝(藩主13歳)
米澤藩30万石3代藩主綱勝、姉の夫が吉良上野介。寛文4年藩主上杉綱勝が跡継無く死去し、吉良上野介の子綱憲の上杉家相続が認められたが15万石に減封されてしまう。生没:寛永14年(1638)−寛文4年(1664)
[官位記載]
正四位上行左近衛権中将兼掃部頭藤原姓井伊氏直孝
井伊家三代当主 譜代筆頭として幕政に参画
會津従四位上左近衛兼少将源朝臣正之
会津23万石の藩主保科正之 家光没後正之は幼将軍家綱を補佐した
越前少将源朝臣光通
松平光通は徳川家康の曾孫 福井藩祖結城秀康の直孫
仙臺少将藤原朝臣忠宗
慶長4年初代仙台藩主政宗の二男として大坂に生まれ、父の死後、寛永13年(1636)、38歳で父政宗の後を継ぎ仙台藩第二代藩主となる。「忠宗」の名は慶長16年に江戸城で元服した際、二代将軍秀忠より一字を賜ったものである。後の元和3年(1617)には秀忠の養女、振姫と結婚している。生没:慶長16(1599)−万治元(1658)
備前少将源朝臣光政
岡山藩31万5千石池田光政 生没:慶長14年(1609)−天和2年(1682)
因幡國主従四位下侍従源朝臣光仲
池田光仲は、家康の曾孫で三葉葵の紋の使用を許されてた
美作國主従四位下侍従源姓森氏長継
森氏
土佐國主従四位下源朝臣忠英義
山内忠義
筑前太守従四位下侍従源朝臣忠之
黒田氏
従四位下肥前侍従兼信濃守藤原姓鍋嶋氏勝茂
鍋嶋氏
従四位下有馬中務小輔源朝臣忠頼
久留米藩21万石有馬氏2代藩主
四品拾遺藝州太守源朝臣光晟
浅野氏生没:元和3年(1617)−元禄6年(1693)
薩摩侍従藤原光久
生没:元和2年(1616)−元禄7年(1694) 薩摩藩2代 島津光久 極官:従四位上薩摩守左近衛中将
出雲侍従松平出羽守直政
松江藩19万石初代藩主 家康の孫 結城秀康の三男
伊賀侍従藤原朝臣高次
伊勢津藩32万3千石藤堂氏 延宝4年(1676)没
秋田侍従源朝臣義隆
秋田藩20万5千石2代藩主 佐竹氏生没:慶長14(1609)−寛文11年(1671)
阿波侍従源朝臣忠英
蜂須賀氏
松平越後守源光長
松平光長は徳川家康の二男秀康の孫で、三河守忠直が父、光長は綱吉の時代に継嗣を巡る重臣の対立である越後騒動で除封
藤堂高虎が寛永5年に寄進
伊賀少将藤原朝臣高虎 寛永五 戊辰年(1628)
この地がまだ、藤堂高虎の上屋敷内であったときに、家康公13回忌の折に寄進したもの
石灯篭
稲葉美濃守越智正則
小田原藩2代藩主 老中
石灯篭−−本殿脇 透塀左外
従四位下行侍従兼河内守源姓酒井氏忠清
後に下馬将軍と言われる
従四位上右近衛少将兼周防守源朝臣板倉氏重宗
下総関宿城主 京都所司代の在職三十余年
従四位下侍従兼堀田加賀守紀朝臣正盛
老中 家光に殉死
従四位下行豊後守阿部朝臣忠秋
武蔵忍藩主 老中
北篠出羽守平氏重
掛川城主北条氏重 信濃高遠城主保科正直の四男、保科正光の弟
石灯篭−−本殿脇 透塀右外
従四位下侍従伊豆守源姓松平氏信綱
知恵伊豆
石御手水鉢奉納
従四位下阿部對馬守藤原朝臣重次
岩槻藩主老中 家光に殉死
池の瑞参道
従四位下行侍従伊達遠江守藤原朝臣秀宗
宇和島伊達藩
石灯籠
慶安4年奉納約200基、寛永年間奉納17基、文化、文政、享保年間奉納25基で、諸大名の寄進になったものである。この中でも有名なるものに、俗称
お化け灯籠
がある。寛永8年佐久間勝之の奉納になるもので、高さ6.8mあり、あまりにも大きいいのでこの名がある。京都南禅寺、名古屋熱田神宮のものと併せて、日本三大灯籠といわれている。
お茶室
明暦2年も奉行徒頭堀田一純、作事奉行神尾元珍、大工木原大工助建築、明治年間に御供所に改築したが、昭和41年再び広間茶室に復元したものである。
御神庫
慶安4年建築、当時は黒漆塗りだったが、明治7年瓦葺きに改めた時、朱漆塗りとした。
御神楽殿
明治7年深川木場組合の奉献によるもので、総檜、無節柾目材で、特に屋根勾配の線の美しさは都下随一と言われているものである。
縁起
元和2年(1616年)2月4日、見舞いの為に駿府城にいた藤堂高虎と天海僧正は、危篤の家康公の病床に呼ばれ神君より三人一処に末永く魂鎮まるところを造って欲しいと遺言をされた。そこで藤堂家の屋敷地であるこの上野の山に、寛永4年、1627年に東照宮を造営した。けれど三代将軍家光は、この建物に満足出来ず、慶安4年、江戸の象徴、金色殿として改築した。
東照宮縁起へ
全国の東照宮は約500社あります。私が訪れた幾つかを紹介します。
世良田東照宮−−−−−芝東照宮−−−−−仙波東照宮−−−−−久能山東照宮
世良田東照宮(群馬県新田郡尾島世良田)
徳川氏発祥の地と言われる、世良田の東照宮。日光東照宮の奥社を寛永19年(1642)に移築した。
芝東照宮(東京都港区芝公園)
寛永18年(1641)創建。戦後に再建され、境内には家光公手植えの銀杏があります。
仙波東照宮(埼玉県川越市)
江戸城二の丸東照宮を移築したものとされる。本殿と拝殿を離した形になっている。
久能山東照宮(静岡県静岡市根古屋)
元和2年(1616)4月17日、75歳で死去した家康公を、遺命によりその夜の内に久能山に神式で葬られ、元和3年4月、天海が中心となり、家康の遺骸を久能山より日光山に山王一実神道により改葬された。
2005/10/18