本を買って読めればいいけど、時間がなかったり、読むタイミングを逸してしまったり、という難関を克服した完読本の感想をつらつらと書き込んでおります。
この中で「これはこれは」な本になるものが出てくればいいのですが。
読んだ本、自分で書いた本、についてのエッセー集。
真っ先に、読者として、僕と違うところは、
「一度読んでしまえば、もうその本に未練はない。」
という部分である。愛書家ではない、という前段があるのだが、僕も自分では愛書家とは思っていない。でも、読んだ本に未練はないかと言われれば、未練があるとしか言えない。読んだ本は処分できず、たまる一方である。
次はこれ。
「物を食べるということは排泄作用と同じくらい恥ずかしいことであって、他人様に見せるようなものではない・・・」
どうです? そう言われたら、なんとなく「そうだね」と頷いてしまうかもしれない。
こういった、小骨のように引っかかる話がたくさん詰まっているから、好きな人にはたまらないだろう。僕もそうだ。
本書のタイトルである「砂をつかんで立ち上がれ」の章は、著者が書いた本の解説部分や感想を集めたものだ。
解説だけ読んで、その本が読みたくなるのかどうか。答えは、そう言う場合もある、となる。僕は東海林さだおの本を読みたくなった(笑) そういう意味では、素晴らしい解説が含まれていると言えるのだ。20031220
なんというか、この人の書くことは、理屈ばかりで嫌なのだ。
だけど「書くこと自体」には興味があるので、先入観を極力排除して読み進めた。
書くこと自体が持つ政治的な力。
書き言葉と話し言葉の違い。
書くことと欠くこと。
などなど。取り上げられる内容はすこぶる興味深い。なるほど、書くことが生業となる人は、ここまでのことを考えなければならないのかと感心する。
貼った付箋の数も半端ではない。それだけ濃い内容なのだが、繰り返し繰り返し同じような内容が語られるので、読み進める上での疲れ方も半端ではない(笑)
しかし「書くこと」「書くことの意義」など、少しでも自分の手で(キーボードではなく)文字を書くことにこだわりのある人は読んだ方がいい。きっと、自分でも分からなかった意味を説き明かしてくれる。
だけどやっぱり、理屈が嫌いは人はやめておいた方が身のためだ(爆)20031214
間宮林蔵といえば、間宮海峡に名を残す探検家。
幕府の一役人であり測量を行う林蔵は、蝦夷やカラフトなどに何度も足を運び、自分の仕事を進める。しかし、幕府や藩、朝廷、商人たちの思惑が入り乱れ、自分のやるべき事を見失う。いや、見失い、見付け直すのだ。
林蔵の顔は凍傷のために崩れている。その皮膚の下に隠れている想い。周りには一癖も二癖もある人間が集まり、次第にもう一人の自分に気が付いていく。
林蔵の人物像は分かりにくい。著者は意識してそうしているのだろう。たやすく他人には影響されず、しかも自分からは露わにしない。極寒の地の凍てつきが染みついたような男に変化の楔を与えるのは、命をかけた男たちの生き方しかない。
と、いったところなのだが、ちょっと長かった。もう少しエピソードを絞ってくれるとのめり込みやすかったと思う。なにせ、幕末の状況を把握していないので、必然的に出てくる話が、本当にあった(あるいはあってもおかしくない)ことなのか、著者自身が創作したものなのかを探る方に意識がいってしまったのだ。まぁ、これは僕の知識不足が根本原因なのだが(汗)
相変わらず、北方節といいますか、長くない文章を積み重ね、しかもずっしりと重い印象を持たせる。
「俺は、違う自分になってみたいのだ」
中盤で吐かれる言葉。林蔵だけでなく、実は林蔵に関わる多くの人間が心の奥にこの言葉を忍ばせている。この言葉の通りに生きるために、死ぬものもあるのだ。生き残ったものは、たくさんの埋もれた言葉の上を歩いていく。20031207
新聞小説を欠かさず読む週間がないので、この本がそれをまとめたものだとは信じられない。
例えば『竜馬がゆく』は新聞小説である。ひとつの物語が長い時間をかけて作り上げられていく。しかし、これが小説かと言われると、そうではないと答えてしまう。なんと言えばいいのか。随筆風?
日記のようでもあり、物語のようでもあり、ページ毎に全く異なる様相を呈していることだってある。共通しているのは、主人公が自分自身で、身の回りに起きた出来事が綴られていること。
ちょうど2000年の1月から開始されていて、例の2000年問題の後始末(実際には直前も含まれるのだろう)にポテトチップを食べる、なんてことも書かれている。
すべての大問題は、自分に関わる小問題に置換される、というような感じ。多くの人には、僕も含めて、そうなんだと思う。仕事、遊び、生活。当然のごとく、自分が主人公。
ただし、僕みたいな凡人とは違い、目の付け所には参ってしまう。今回、貼った付箋の枚数は数え切れないほど。中でも、特に、
「だからむしろ人生の基本は再利用だ。みんなそもそもが中古品である。自分は新品だなんて思い上がっちゃいけない。」
なんて事を言われてしまうと、無条件に頭を垂れるしかない。
それから、本文中には日毎にイラストが入っている。通常、新聞小説だと著者と違う人に任せるのだろうけど、本人のものである。珍しいパターンだが、一番説得力のある組み合わせだろう(笑)20031206
副題「フェルマーの最終定理が解けるまで」
<数理を愉しむ>シリーズの最初の一冊。(もう一冊はこの本)
フェルマーの最終定理とは、
xn+yn=zn (n≧3の整数) を満たす自然数x、y、zの組み合わせは存在しない
というものである。たったこれだけの式で表されていることが、17世紀にフェルマーという数学者によって提起され、現代に至るまで証明されていない状態が続いていたのだ。
物語は(あえて物語と呼ぼう)、ある数学者が「証明」したと思われる場面から始まる。実は不備があり、証明としては失敗となるのだが、そこから先は数学の歴史と共に「証明」に至る道のりが明らかになる。
長い長い道のり。数学が高度化し、分野が細分化していくと共に、全く新たな分野が出現する。たくさんの天才数学者が出現している。たくさんの分野、たくさんの定理。
フェルマーの最終定理が証明されるに至る道のりは遠く長く、しかも驚くべき事に、高度化する数学が無ければ、しかも、異なる分野と考えられている定理や予想を使わなければ成し得ないものだった。
実は、登場する数学的な内容は、またもや理解不能なことばかり。でも、何故か面白い。所々では涙腺がゆるみそうになったくらい。数学の名を借りたサスペンスか。
もう一冊の本に比べると、こちらの方がはるかに読みやすいし、物語に入りやすい。しかも、数学の歴史も追える(もちろんすべてではないが)。読み終わってから、思わず書店の数学専門書コーナーで、居並ぶ背表紙をじぃっと眺めてしまったくらい、数学自体の持つ雰囲気と知識欲をかき立てられた。
たった一つの問題が、数学者の人生を狂わせることもある。しかし、フェルマーの最終定理は、たくさんの数学者の功績の上に成り立つようなモノかも知れない。
こういう本を読むと、つくづく学生時代の勉強がなんだったのかという思いに駆られてしまうのだなぁ(笑)20031130
この「F」は何かと言えば、全体の底を流れるという点から「Family」なのであろう。
直木賞受賞作だが、読み終わっても、何となくそれぞれの話の暖かさが残るだけで、物語自体に仕掛けがあるとか、山あり谷ありといったものを感じなかった。僕の心は荒んでいるのだろうか。
例えば、最初の『ゲンコツ』。前に読んだか、聞いたかしたような話。ラストもなんとなくありがち。どれも似たような印象。
唯一、そうだよな、と思ったのが、この一文。
「こどもの頃は数え切れないほどあった「もしも」の選択肢がどんどん減っていくのを肌で感じ取り、といって、まだ選択肢がすべてなくなってしまったわけではない、・・・」『なぎさホテルにて』
歳を重ねてくると、確かにそういう風に思ってしまうことがある。いつまででも可能性を持っていたい。しかし、身動きが取れなくなってきているのもまた事実。焦りと諦めとが段々大きくなり、それにつれて光は遠のき暗くなってゆく。
ただし、この文だって、誰もが口に出すわけではないけど、全く考えていない事ではない。そういう意味では平凡なのだ。
と、ここまで書いてきて気が付いた。
つまり、平凡さが主眼なのだ。Familyだって平凡。どれも似たようなってことは平凡。まだ全うしたわけではないが、人生だって、振り返ってみれば平凡の固まりなのであろう。さざなみ程度が嵐のように感じ、肩に積もる雪でさえ凍えるほどの重さに思える。だけど他人からすれば、それらは何の感情も引き起こさないことだってある。
でも、これらの物語に少しでも似たようなものを見つけ出せる人には、波を増幅させ、寒さをつのらせることにつながるのだ。20031124
今年は阪神の調子がいいからか、表紙の、黄色と黒を基調としたイラストや、同じく縦ストライプになっている帯も、関東の人間にとっても違和感がない。
読めば分かるが、きっと、大阪ではいつでもこのパターンでOKなのだろう。
文化の違い、と一言で言ってしまえばそれまでだが、なんともまぁ違うモノである。
最も驚いたのが「天ぷらにソース」だ。
曰く「ま、お好み焼きも、たこ焼きもみなソースがかかっているのだから、当然ではあるが」。って、何が当然なんだ? そういうモノか? なんかいい加減だな(笑)
まぁ、なんと言っても象徴的なのは、最初に登場するエピソードである。
トルコを旅行していたとき「日本のどこの人か?」と聞かれて「大阪」と答えると「じゃぁ日本人じゃないね」と言われたというのだ。
そうなのだ。大阪人は日本人ではないのだ。
だから、こういう本で、大阪人が何であるかを少しでも知らなければならない。
と、仰々しく考えなくても、単にこの本を読んで、面白おかしく大阪人について知ればいいのである。20031123
作家には、長編型と短編型があるそうだが、吉村昭はどちらであろう。
僕は長編型だと思う。静かで抑えた書き方は、長編にこそ相応しく、短編では、いや、この本の作品のように、超短編に近いものには相応しくないと、何とはなしに思っていた。
ところがどうであろう。
どれもが、切り取られた時間と空間が、あの語り口で瑞々しく浮かび上がる。必要な部分だけが集約され、不要な部分はない。抑えているということは、まさにそういうことと同じだったのだ。
また、『梅毒』を読めば分かるように、長編執筆の際の裏話とも言うべきことも、まさに一編の小品としてなしてしまう。取材もまた小説のためであり、小説が小説を生むのである。
個々の作品について、改めてコメントはつけなくても、読めば分かるのだ。
吉村昭の長編に親しんでいる人も、あるいは全く読んだことがない人も、一読あれ。20031116
数学や物理自体は嫌いじゃない。
むしろ、好きなのだ。(だって、理系なんだもん(笑))
この本は数学をつくりあげてきた人を3冊に渡って紹介するものである。
例えば、アルキメデス、デカルト、フェルマ、パスカル、ニュートン、ライプニッツ、ベルヌーイ、オイラー、ラグランジュ、ラプラース、フーリエ、などなど、知った名前が出てくる。きっと、それぞれの業績が出てくるのだろう・・・、と期待していると、足下をすくわれるので注意が必要だ。
この本が「何を言いたいのか」わからん。彼らが成し遂げた仕事は一応書かれている。しかし、普通の人が読んでも「それがどのようなこと」なのか理解できない。内容が難しくてということではなく、故意に端折っているのではないかと疑いたくなるのだ。あるいは、数学者の生き方はこうであった、ということに焦点を絞っているのが正解か?
おそらく、理系の人が読んでも面白くないのではないか。それじゃ文系の人はといえば、ところどころに出てくる専門用語に面食らって、やっぱり面白くないのではないか。つまり、どちらが読んでも満足することは難しい本ではないかという結論になるのだ。
もっとバリバリの数式寄りか、人間くさい物語でないと。
そういう意味では、まだ買ってないけど(高いので)ちくま文庫の『オイラーの贈り物 人類の至宝 e^iπ=-1 を学ぶ』の方がそそられる。
でも、残りのIIとIIIが出たら(内容によらず)買ってしまうのだろうと思う今日この頃(実はIIは買いました)。読むかどうかは分からない。20031104
ちょうど西暦が紀元前と紀元後に区切れる頃、「新」という国が興った。
劉邦が作った漢という国は、一旦、新によって終わりを迎える。何故そうなったのか。いわば、なるべくしてなったのである。大なり小なり、そうやって中国の歴史が作られていくのだ。
新の皇帝となる王莽であるが、悪人なのではない。自らを律し、徳を積むことで徐々に地位の階段を上っていく。低いところから見た世界は濁っていても、なぜか高いところからだと透明に見える。それは、濁りが無くなるのではなく、見えなくなるからだ。
国を興し、自らが万能の男となった途端、世の中が見えなくなることは加速していく。空回りし、人民は離れる。これまた世の常である。
理想が実を結ぶ。当たり前に実行すれば、当たり前のように実現できる。今も昔も、簡単なことが出来ないのだ。
権力は、持つ者の使いようで毒にも薬にもなる。ほんの少しの匙加減で180度向きを変えるなどというのは、星の数ほど話がある。でも、その中で苦悩する人間の姿を見るのは、持たざる者の楽しみとも言えるだろう。20031025
副題「現代医療への根源的問い」
生命科学の研究者として着々と成果を生み出していた矢先、その道を絶たれることになる。どんな理由であっても、それは悔いの残ることだ。それを乗り越えたとしても、自分が社会の一員として生きていくことがなんと難しいことか。
原因不明の痛み、苦しみ。入退院の繰り返し。医師からは納得できる説明はなく、しかも刻々と消耗していく自分を制御することが出来ない。
半ば医師からも見放されたような状態になり、生きる希望さえも失ってしまうかも知れない。
病の原因がつかめず、治療法も分からない。だからこそ患者本人の発する言葉の重要性が非常に高まっていくのである。そこを曖昧に受け取り、分からないことがすなわち治療の放棄につながりかねない恐ろしさ。
診断が出来ないことから、精神的な原因を指摘されるが、本人はそうでないことを冷静に確認している。医師が下すそのような指摘は、実際は思考の放棄と患者の見放しである。
しかし、あとがきにこう書かれている。
「(最も辛かったのは)、病気の原因が精神的なものであるといわれたことではなく、精神的な原因で病気になるような人には手を貸す必要がないという態度で接せられたことである。」
つまり、身体的な病気と精神的な病気に人格の優劣をつけることは出来ない、ということである。どのような病にでも、医療に携わる人から人格を貶めるような扱いを受けることはないのだ。
自らが科学を志す人間が、科学が未だ万能ではないことを受け入れなくてはならない。困難な状況の中で、それでも生きる希望を絶やさずにいることが出来る強さを持っていることは幸運である。著者自身だけでなく、医療の側においてもだ。
病の中にある人間は弱いといえる。その上で、医療関係者には是非とも一読を願いたい一冊である。
20031025
中身はともかく、タイトルがどこかで使われているパターンなのが・・・。
(ホントはこちらが先なのかも知れないけど)
ソニーの盛田昭夫といえば、あの白髪とあの声が浮かんでくる。筆者は34年間、ともにソニーで働き続けてきたのだが、確かに本書の中には盛田氏のエピソードが満載である。
たとえば、こんな話。
「ウォークマンを売るまで、ソニーの役員の中で『POPEYE』を毎号読んでいたのは盛田だけだった」
当時のPOPEYEがどれほどの雑誌だったのか、僕は知らない。でも、アンテナを鋭くしていたというイメージは明らかだ。
似たような?話で、僕が世話になったことがあるある部長は、当時の4大漫画週刊誌『少年ジャンプ』『少年マガジン』『少年サンデー』『少年チャンピオン』を欠かさず読んでいた(らしい)。
直接の比較は出来ないけど、本人の年齢と脳みその年齢は、分離することが可能なのだろう。それが出来なければ、常に新しいことに触手を伸ばす仕事には相応しくないとも言える。
リーダーシップをとる人と共に支える人。一心同体と錯覚することもあるだろう。あるいは、何をすべきか本人の立場にたったつもりで考えるのが習い性になっていたのかも知れない。人にはそれぞれ似合う役割があって、この二人がまさにぴったりはまってしまった希有な例かも知れない。
それは幸せなことなのかな? と一歩ひいて考えてしまう僕は、何を目指しているのだろう。あまりにも全面的な賞賛は、なにかを見えなくしていることと同じなのではなかろうか。20031023
《時と人》三部作のラストを飾る(?)
リセットとは何を意味しているのか。前二作の『スキップ』『ターン』では、タイトルが直接に主人公の遭遇する時のいたずらを示しているのだが、本作はそういう意味からすると分かりづらい。
だからというか、物語の中盤を過ぎてからでないと、「リセット」自体の示す時間の流れが見えてこない。(ただ、ここでそれがどういうものかを説明するとネタバレになるので書かないけど(笑))
イメージとしては、らせん。(でも、ホラーじゃない(笑))
時の流れはまっすぐではない。前二作でも、この仕組みが前提となっている。本作は、らせん状に流れる時間の中で、心が引き合うことの不思議。
実は、前二作の記憶が曖昧になってきているので実際にそうなのかは自信をもって言えるわけではないのだが、本作が一番綺麗な物語であろう。なぜなら、主人公達の人生は、(最期まで)途切れることがないからだ。
時代は太平洋戦争の少し前。細かい生活描写が雰囲気を醸し出している。巻末には解説代わりの対談(宮部みゆき)があって、物語に登場する物品のイメージが出てくる。それがキーポイントとなるのだが、やはり本文を読み終わってから見るべきであろう。僕はこれを見て、読み終わった物語の時代の香りみたいなモノをもう一度感じた。
三部作ではあるが、これらに物語り上の繋がりはなく、順番に読まなければならない必然性はない。でも、順番に、だな。20031019
確かに、日本語は乱れてきている。
ということで、清水義範がこの手のネタをいじれば、こうなるんだぞという、たいそう面白おかしい短編集。
なかでも、あっと思ったのが『場所か人か』。
場所が人を表す、なんて言われると、なんだか分からないが、 「あちら様」「家内」「上様」などなど。場所を指しているのに、実は人を表しているんですね。これでまずびっくり。まぁその後、こういうネタで遊んでしまうのではあるが。
次に『たとえて言うならば』。
これは比喩の話。物語は、小学生の作文の中の比喩についてである。テクニックとしての比喩は大変有効であり、作文においても、日常生活でもよく使われる。でも、テクニックと話の内容はどちらが重要なのであろうか。ということ。
単純な内容がだんだんねじれていく様は、清水節とでも言うのであろうか。
そのほか、どの物語を読んでも、何かしら「?」と「!」があって、ひょっとしたら自分もそうなのではないかと冷や汗をかいてしまうかも知れない。
20031016
中国古代の歴史には、なにかと不思議な事が多い。
不思議といっても、僕自身がそう思うわけではなく、こういう本を読むと湧き上がってくるのである。不思議を提供され、それが何らかの形で収束していくのを感じるとき、読んで良かったなと思うのだ。
殷を倒した周。かの孔子が理想とする男がいた国。
文章を作ること。当時は一種の魔術的な要素があったらしい。今では考えられないことだ。文で人を動かし、兵を動かし、国を動かす。その才能を有しているからといっても、己が前に出すぎることもない。国王の弟としてあくまで補佐に徹する。
そして「礼」。
礼とは何だろう。もちろん現代における礼とは意味合いが異なる。社会規範であり、倫理であり、祭礼であり、外交であり、・・・、ほとんど全てを包含するといっても過言ではないようなもの。礼を再構築したのがこの男。
物語の半ばで、こういう出だしがある。
「神話伝説には必ずなにがしかの事実が含まれる」
周は、夏、殷に続く国であるが、まだ神話の世界である。その中で、周公旦なる男の行動を再構築するのは、難しくあり、易しくもあっただろう。
著者もまた、中国の歴史には深く思うところ有り、さらには文章を作る者として、楽しんでいたのではないか。埋没する歴史、人物、行動に目を向け、掘り出し、光に晒すのは得意とするところであろう。20031013
人を外見で判断してはいけないと言われるが、そう簡単にはいかない。
倒産しそうな広告代理店が受けてしまった仕事は、小鳩組というやくざのCI。一筋縄ではいかないというのは、まさにこういうことなのだろう。小さな広告代理店は、人も金も限られている。でも、一人が真っ向から受けて立ち、また一人、また一人と増えていけば、力は二乗で広がっていくのだ。
主人公である杉山は、父親の座と、娘の保護者という立場を失おうとしている。失うことは悲しいことだ。ただ、悲しいことが不幸なことかと言われれば、それだけではないというのがみそ。
「終わってからじゃないと、何も気づかない」
「理解できるものは、怖くない」
失うかもしれない。失う。
その代わりとでも言うのか、知らなかったことを知る。
ほんわかとしたユーモアの中、見えないモノが見えてくる。実は、見ているつもりだったものが、何も見ていなかったことが分かってくる。そんな話。
緊張を強いられている人には、すぅ〜っと力が抜けていくような味わい。20031010
人は何かを守ろうとする。
愛する人を敵から守るのもそうであるし、自分自身を他人から守るのもそうである。
タイトルである「朗読者」。主人公の(当時)少年がそうなのであるが、そうすることが彼のそのときの生活を守ることの一つであり、朗読される側も彼女自身を守ることになるのである。
物語の後半になってあかされる彼女の秘密は、この朗読が大きな鍵となる。
彼女は自分を守るために強固な殻を被り、自分が追いつめられても破られないようにする。そのことに気が付かなかった彼は、逆に自分自身を守れなくなっていく。
自分にとって何が大切なことかを、他人が推し量ることは非常に難しい。まして、自分自身にとって何が大切なのかを探し当てることだってそうである。だから、確たるモノを探し当てる事が出来た人には、それを守るだけの、ありったけの力を向けるのは、当然といえることなのだ。
その結果、他人からみれば不幸になるのだとしても、そう感じることはない。
でも、殻を破ることが出来る可能性を持つ人はたくさんいる。
それを信じている人が、きっといる。20031005
またまた、前田慶次郎である。
どうしても比較してしまうが、と言うより比較するためにこの本を読んだということなんだけど、読み終わっても印象が薄い。読む順番も関係しているのだろうけど、語り口が違っていることが大きいような気がする。
どちらかといえば、砕けた口調となっている海音寺版では、慶次郎とその他の人々の交わりが少ない。意図してそうなっているのだろうか。エピソードも少ない。ただし隆版では出てこなかった石川五右衛門や、妻となるはずだったお篠などが登場する。
でも、やはりスケール感が若干乏しく、ワクワクしないのである。
したがって、順番としては、本書を読んでから、『一夢庵風流記』に進むのが正しいと思う。しかも、少し時間をおいてだ。20031005
副題「誰も語らなかった現代社会学<全十八講>」。
なにせ、呉智英氏といえば、知っている人は知っている。
この本の内容も、普通の人が信じている「世の中の仕組み」を根底から覆してしまうかもしれないインパクト。受け入れるか否かは読む人に委ねられるが、実は冒頭部分の「はじめに」と書かれている内容を読んでおくと、著者のスタンスが分かる。したがって、そこだけは読んでおくように(笑)。
人権と民主主義、ナショナリズム、民族差別、現代人の愛、教育とマスコミ。
これらについて3〜4講に分けて語られている。どれも僕は本気で考えたことのないこと。だから、実は読み終わった後、語られている内容に相当引っ張られたような感じがする。そういう点では、何の考えもなしに読み始めると危ないのではないかと思う。(だから「はじめに」を読んでおこうと言うのである。
ただ、僕が前から疑問に思っていることが取り上げられていたので、そこは注意深く読んでみた。その結果僕がどう考えることにしたかは言わないが、なぜ疑問に思ったのか、きっかけを書いてみる。
もう15年以上前のことだろうか。深夜のTVで落語番組をやっていた。その中で、
「”ピー”ちく」「”ピー”ちく」と(”ピー”は所謂ピー音ね)、やたらと聞きにくい音がかぶせられていた。落語家はどこかの寄席でラーメンのネタについて話していたのだろう。堂々と「シナチク」と言っていたのだ。そのとき「ひょっとして、シナチクの”シナ”というのは放送禁止なのかな。どうしてだ?」と思ったわけ。こんなに聞きにくい話になってしまうのなら、最初から放送しなければいいのではないか、と。
シナがChinaであることは何の不思議もないのに、どうして放送されてはいけないのか。僕が知らない(誰も教えてくれない)理由があるのだろうか、と。
まぁ、そういうことがあって、疑問はずぅっと引きずっていたのだ。
繰り返すが、この本の内容については鵜呑みにしてはいけない。少なくとも「冷静さ」を保って、内容を吟味出来るだけの知識がないといけない。だから僕は、後追いではあるが少しずつ情報を蓄積していかなければならないのだ。20030921
この本を元にした漫画があるそうだが、読んだことはない。
なにしろ、たいていの場合は原本の方が面白いからだ。
そういえば『利家とまつ』に前田慶次郎が登場していた。しかし、この本を読むまで、TVに登場する人物と、物語に登場する人物が全く関係ない(というよりは興味なかったといえるが)と思っていたのである。
さて、この傾奇者とされる前田慶次郎。何が強いって、本人の自信が一番であろう。良くは分からないが、現代の若者が持っている根拠の希薄な自信とは訳が違う。戦国の世にあり、修羅場をくぐり抜け、自分の力だけではどうにもならない事があることも知っている。
だからかも知れない。武だけでなく書物や茶などをはじめとする文の領域をも取り込むことで厚みを持たせている。
強いことは、真っ当な自信をもって裏付けされるのだ。
だから、後に行動をともにする捨丸や骨といった人物もそこら辺に惹かれたのだ。
さらに、人物は人物を見る。直江兼続との関わりも、そこに自分と同じ匂いを感じたのだ。
物語自体は、面白いところがてんこ盛りといったところだろうか。何をしても絵になる。機転が利いた展開。人物と人物のぶつかり合い。どう転んでもつまらなくなるわけがない。ただ、少し残念だったのは、「唐入り」以降のあたりかなぁ。他の部分と比べて物語のスケール自体が縮こまっている感じ。
もっと沢山のエピソードがあってもおかしくない。
後で気が付いたが、『利家とまつ』の中での、まつと慶次郎の、なんだか微妙な雰囲気があったのは、この本の影響を受けていたのだろうか。20030915
『Sports Graphic Number ベスト・セレクションI』の冒頭を飾った『江夏の21球』の印象があまりにも強烈だったので、購入。
やっぱり『江夏の21球』。読み返してもなんだか泣けてくる。
前にも書いたけれど、スポーツを通して何らかの実績、もちろん優勝や金メダルだけでなく、途中で負けたり、戦わずして敗れることは、個人のベクトルに影響される事が多い。特に団体競技の場合は、いかにベクトルを一方向にそろえるかが重要である。とはいえ、他人の考えることを知ることは出来ない。
「自分のため、ただそれだけです」
これは『たった一人のオリンピック』の最後に出てくるせりふ。競技において集約できるのはこの一言なのでは無かろうか。自分のため、ということが何を指しているのかはそれぞれであろう。勝つこと。今までの自分よりもっと先へ行くこと。あるいは、僕には分からない何か。
みんな自分のために戦っている。チームや団体や国のためにと思われていることが幻想かも知れないということに気が付かされるのだ。
だから、スポーツには「孤独」という裏側が必ず張り付いている。20030907
なかなか連続しては実行できないが、自転車通勤もしている。
週末には極力自転車に乗り、都内程度であれば買い物の足として十分だ。もちろん買い物が目的でなくても、自転車のペダルを回すこと自体が楽しく、風景が変わり、風が変わり、太陽の角度が変わることが、体力と汗で得られる収穫である。
この本、自転車通勤だけではなく、自転車を取り巻く問題点も取り上げている。どちらかといえば、そっちの方が主眼かも知れない。
交通手段の一つでありながら、いわば地位を与えられていない感じがする自転車。放置自転車をはじめとする使用者のモラル低下。それを助長するような販売側。手をこまねくだけの行政。
いろいろな問題点はあるにしても、一つ言えること。
「自転車で走ってみればいいじゃん」
文中にも書かれているように、片道10kmだったら1時間以内で目的場所に到達できる。満員電車で身動きできない嫌な思いをすることなく、自分の周囲を感じながら自分のペースで動くことがデキルのだ。
問題がないわけではない。車、歩行者、雨、ルート。
それでさえ、割り切りと、ちょっとした経験があれば何とかなるモノだ。
車や電車が通勤(移動)手段の全てと思っている人。もう少し変化が欲しい人。そういう人たちに、さわりだけでも読んでもらいたい。20030803
『Number』という雑誌、実は創刊時からしばらくは買っていたんだ。
スポーツグラビア誌としてしか認識していなかったからか、こんなノンフィクション群があったとは全く記憶にない。俺様の目は節穴だ。
冒頭を飾る『江夏の21球』(山際淳司)が鮮烈なイメージ。
僕も見た記憶がある日本シリーズ、近鉄と広島。マウンドに立つ江夏。伸び上がるキャッチャー。追いつめられる3塁ランナー。
スクイズを見破ったのかどうかは関係ない。広島が勝ったことも関係ない。胸が詰まる想いがしたのは、同じく「勝つ」ことを目指しているのに、なんとバラバラなベクトルなのだろう、ということにだ。
ピッチャー江夏の考え。監督古葉の考え。どちらも間違ってはいない。でも微妙どころか、大きくずれた方向のままゲームは進んでいく。
結果は後から付いてくるモノだとすれば、それぞれの想いは正しかったと言える。でも、逆であったなら・・・。
グラウンド上の9人とベンチのひとり。明らかになるのは意思の疎通が広い球場ではもはや意味がないこと。数少ないやりとりが一瞬のエネルギーとなりうることもまた真実のようである。
『江夏の21球』で露わになる「個人の想い」は、野球だけでなく、全てのスポーツにも敷衍できる内容であると思う。所詮、他人には伝わりにくく、自分でさえコントロールの出来ないこともあることを共有できるわけがないのだ。しかし、共有を幻想することは可能であり、その上でスポーツは成り立っていると言えるのかも知れない。たとえ個人競技であっても。
そういう意味でも、創刊1号を飾るにふさわしい1編。
正直言って、他の12編はこの1編の輝きに及ばない。20030727
この本を読んでも不良社員とはどういうものかが分からない僕は、実は不良社員ではなく、単なる普通の会社員か、使い物にならない給料取りである可能性が高い(笑)
たくさんの、過去の有名人の言葉が出てくる。僕はそれらの人々の本を読んだり、偉人伝をつまみ食いしたわけではないので、本当のことなのか、著者自身がパロディとして作ったのかは分からない。でも、いくつかをあげてみると、
「人からよく思われたいなら、自分の美点をまくしたてないことだ」(パスカル)
「自分では前を見ているつもりで、じつのところはバックミラーを見ている」(マクルーハン)
「仕事はそれに使える時間があるだけ膨張する」(パーキンソン)
「いやな仕事だと思った人は、いやいややればいいのです」(嵐山光三郎)
などなど。
だいたい、自分の仕事が会社の利益を背負っているなんて、間違っても考えてはいけない。自分の代わりはきっといる。会社を去ることになれば、気のない拍手を受けて送り出されるだけだ。
正しいサラリーマンとは、感情のコントロールがうまく、損得で考え、表情を上手に作る、ことらしい。まぁ、それはそうだろう。会社の中では機能部品としての優秀さが問われるし、これらのことは部品の性能だからである。
結局のところ、不良社員とはデキる社員なのか、そうではないのか、微妙のようだ。
少なくとも、不良社員を自認するようなタマではないことは、十二分に承知している今日この頃である(爆)20030721
引っかかるのは、この書名である。
「エンガッツィオ」とは何か?
読めば分かるのだが、おそらく、男子ならばすぐに思い出せるであろう。女子ならば・・・、おそらく。
詳しくは書かないが、まぁ誰にでも経験のある遊びであり、誰でもそう叫んだことがあるだろう。物語は、僕らが遊んだころの内容とは次元が違うところを流れる。思い出すのは『最高級有機肥料』(だったかな)。その作品は、ある意味傑作であり、気力が減退したときには何度かそのイメージにげんなりとしたものであったが(笑)。
短編集の冒頭を飾る『エンガッツィオ司令塔』は、初期の筒井康隆作品を彷彿とさせるモノがある。馬鹿馬鹿しいほどのエネルギーの集中具合。ネタ自体もとんでもないが、スピード感も良好。
次にくるのは『乖離』。肉体が発するイメージと脳が発する言葉とのギャップがたまらない。
「肉体よりもことばに恋い焦がれるとは。」
まさにこの一行に集約される。
しかも、考えてみれば、(物語中でのこの一行とはニュアンスが異なるが)イメージと言葉が別であることは既にたくさん経験しているのである。再確認するまでもなく、少し前まではラジオから流れる言葉と本人とのギャップの大きさや、文章からくる人物像と実際の行動は一致しないことを知っている。
この本にある物語は、絶筆期間中に書かれたものも含まれている。その期間中には、本人は俳優として活躍していたらしい(詳しくは知らないけど)が、この一行が象徴しているように「ことば」への想いを強くしていることは言うまでもないだろう。
恋い焦がれることは、若さへの投射とも考えられる。だから『エンガッツィオ司令塔』のように初期を思い出させるような作品が生まれたのだとも言えるのではないか。
(ただ、誰が読んでも面白いと思えるとは言わない(笑))20030713