廃盤のない社会、絶版のない世界を その1


幸運にも「ジャックスの世界」と「マリアンヌ」に辿りつけたが・・・構造は変わらない。

ぼくが18才のときに、「ジャックスの世界」のA面1曲めに入っている「マリアンヌ」に出会ってから、好きな時に好きなだけ聴けるようになるまで、7〜8年かかってしまった。「ジャックスの世界」は10年以上も廃盤の状態が続いて、CD化されるまでおよそ多くの人に聴かれることはなかった。物理的に不可能だったのだ。

こんな馬鹿なことが起るのだ。そして、それは構造的な問題なのだから、繰り返されてきたのだ。レコーディングされた音は、どこかにマスター・テープの形でありながら、それを流通させるには、プラスティックの円盤にして、物流に載せ、そして、空間的に制約のあるレコード店を通じて販売しなくてはならない。レコードからCDになることで、占有面積、体積が小さくなった分、事態は改善された。とは言うものの、構造は変わらない。

チャネルの稀少性がもたらす「廃盤」とヒット指向

ぼくが聴きたいのは、その音であって、チャネルの稀少性なるものはどうでもいいことなのだが、ビジネスはそうはいかない。チャネルが物理的に制約されていれば、また、提供される仕組みが市場経済を通じざるを得ない以上、構造は同じなのだ。

事業主体からすれば、短期的な利益を追及するためには、ヒットが必要であり、それが少数の人々のインスピレーションをどれだけかきたてようが、目標予算に達することがなかったら、切り捨てられる。これはもっともなこととも言える。市場経済における事業というものは慈善では動かない。

かといって、公的セクターが介入すべき筋合いのものでももちろんない。ラディカルな表現であるほど、権力者は抑圧したがるものだ。

運良く、「ジャックスの世界」なり「マリアンヌ」に出会うことができたが、周辺的なロック表現にはきっと出会えていない素晴しいものがあったに違いないのだ。業界の評論家の先生がたが時折、そのような表現について言及するけれども、それは、そのような稀少な「廃盤」にアクセスしうるという権威を誇示し、その評論家の先生がたの神話を強化し、ヒット創出機能を補完するものに他ならない。

ディジタル化がもたらす可能性

このような理不尽な状況を突破する可能性が開けてきた。コンピュータ化、ディジタル化がこの隘路を突破しうるのだ。理論的には、音楽著作権を有している会社が、過去のマスターテープをすべてディジタル・リマスタリングしてくれれば、理論的には廃盤をなくせるのだ。そのサーバにアクセスして、そこから自分が求めるものを取ってくる。そういうしかけができればいいのである。

すでに、減価償却が済んでしまったソフト資産であるが、それを提供する仕組みとしてランニング・コストを回収する分くらいの値づけをしてもいいのではないだろうか。そうそう、廃盤ではないのだから、新盤と同じくらいの値づけをされたとしても、納得できる。

96年1月現在、2GBのハードディスクは6〜7万円である。CD1枚に650MB収容できるわけだから、1枚あたりの蓄積に要する限界費用は高めに見積もったとしても、2万円くらいだ。ハードディスクが大規模になればなるほど、この限界費用はゼロに近づく。

現在、倉庫に眠っているマスターテープをディジタル化すること自体はネックではなさそうだ。あとは、どのようなネックを解消すれば良いか。それは、現在の流通の代替手段の問題なのである。(続く)

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