元「絶対零度」(大熊亘、笹山てるお、中川一郎)@「地下から空へ #3」@plan B on 970427

地下から空へ#3を支えてくださった人々

「地下から空へ」という催し物をねっとでいや、ねっとでい協賛のNTTがOKを出してくれたおかげでplan Bに2回線を引き込み、佐藤さんのリアルタイムレビューが実現した。ぜひ、ご参照願いたい。

PAはいつも過小なお礼しかできないのであるが、笹山君の伝で菱沼ケンさんにお願いしている。催し物の当日、最高の働きをいつもしていただくのが菱沼ケンさんである。搬入、リハ、本番とすべてを見つめていて最高の音を引き出してくれる。まことにありがたい限りである。興行的にも成功させ、そして、いつか、レコーディングを行う時、その際にはケンさんにお願いしようと思っている。

大熊亘君とのplan Bでの再会

ぼくと笹山君は、埼玉県の春日部高校の同級生だった。接点は、ジャックスであり、岡林であり、早川義夫だった。「サイケ友達」。第3回のちかくう(地下から空へ)でのMCの時の笹山君の言葉だ。これほど、ぼくと笹山君の関係を簡潔明瞭に記述する言葉もないだろう。

79年に、上智大学の「ニューウェーブロック研究会」で出会った人たちではじめられた「絶対零度」(命名は笹山君であったらしい)に笹山君が誘ってくれた。「サイケ友達」のよしみがあったからだと思う。大熊亘君と初めて出会ったのは、その79年9月あたり。たしか、大井町の練習スタジオだった。

大熊君はパンク青年だった。昆虫の眼を思わせるようなサングラスをかけ、タイトな黒いズボンに、グレーのジャケット。典型的かつ徹底したパンクロック青年だった。ぼくは、そのようなたぐいの人にあったのははじめてあった。

絶対零度の第1期のメンバーは、キーボード、ボーカルが大熊亘、ドラムス、サックスが木村真哉、ギターが笹山てるお、ぼくがはじめて弾くことになったベース、そして、波止康雄氏がボーカルであった。この時期は、ほとんどを歌は波止さんが作り、ぼくらは自然発生的に音を出すという感じだった。

ぼくは、はじめて手にしたベースという楽器を木村君のひとつ突き抜けたビートの木村君に合わせて、ピッキングでうねりを出すような弾き方をいろいろと模索していた。笹山君のギターは、とてもユニークな音をサクレツさせ、大熊君のキーボードは変幻自在であった。また、大熊君は「ハロー3」という歌(?今度定義を聞いてみたいと思う)をつくったりもした。

吉祥寺のマイナーに何回か出ていたところを地引雄一さんに見い出していただき、また、「ミュニオン」というミニコミをやっていた林原聡太君(あのシングル盤のブックレットは彼がいなかったらできなかったし、何しろ、さまざまな展開を推進してくれたのはひとえに彼のおかげだと思う)がマネジャーを引き受けてくれたりして、80年3月からロフト、屋根裏、クロコダイル、法政大学のオールナイト・ロックに出させてもらったりした。さらには、80年夏には、地引さんのジャンク・コネクション・レーベルから、33回転のシングル盤が出る。

このシングルのレコーディングは六本木のスタジオ・マグネットで行われ、「亀裂」、「百足」(無題だがそんな呼び方がされていた)、そして、大熊君の「ハロー3」である。

その後、波止さんが抜けて、81年1月でのロフトでのライブから4ケ月ほどぼくは抜けることになった。大熊君とともにステージにたったのは、81年1月以来だった。

96年3月。ぼくはplan Bと出会った。96年12月8日にやった第2回のちくう(地下から空へ #3)に一度、元「絶対零度」をやった。木村君はぼくのユニットを手伝ってくれていて、ちくうの共同企画者である笹山君も同意してくれて、「百足」をやった。

94年11月の早川義夫さんのコンサートで笹山君と再会して以来、ぼくは、少しずつ自分で歌をつくりはじめたり、あるいは、かつての絶対零度で81年あたりにつくっていた歌を再度歌ったりしはじめた。それと並行して、木村君、大熊君、笹山君のライブを観にいったりしていた。客席から、かつての仲間が発する、かつて、一緒にステージに立った仲間の音楽表現を享受した。それはそれで素晴しいことであり、これを契機として自分のやろうとしていることと、彼等のやっていることを確認することができた。

あとは、「一度、一緒にやることでそれぞれの音を感じたい」というような気持ちが湧いてきた。96年12月8日に木村君、笹山君とやって、それぞれの現在の音の在りようを感じることができた。一緒にやらないと感じられないノリであったり、あるいは、ぴたっと感じることであったり・・・そのようなことを実感できた。大熊君ともやれないかな・・・ぼくはそんなことを思ったのだった。

大熊君は、白州を通じてplan Bを発見し、96年12月末にplan Bに出演する。その後、plan B企画委員会の斎藤朋さんや、高橋タクヤさんの尽力で音楽系スポットとしてもさまざまな表現が展開されることになった。97年4月から、その動きが本格化する。そして、大熊君は音楽文脈調査計画、音楽水脈調査計画をひっさげて本格的にplan Bで展開することになった。

plan Bに出かけるにはパワーがいる。本当に表現と対じする感じなのだ。この4月、ぼくは、自分のちかくうが近いこともあり、そのパワーを得られたように思う。そして、大熊君の2回の公演に出かけて、「笹山君と元『絶対零度』をやるんだけれど、一緒にやらない」と提案し、「ぜひ、やろうよ」と快諾をもらったのだった。美和さんにも「よろしく」と・・・4月25日の音楽水脈調査計画の時に、再度、お願いをした。

4月27日。第3回ちかくうに、8時頃に大熊君は来てくれた。笹山君の歌も聞いて出番を待った後、リハーサルもすることなく(ぼくと笹山君は、音調整のためのリハは軽くやっていた)・・・ぼくにしてはずいぶんとしゃべったり、ねっとでいの長田さんのネットと絶対零度との出会いに関する素晴しい演説の後、元「絶対零度」の演奏がはじまった。「亀裂」と「百足」である。

大熊君がクラリネット。笹山君はキーボード。そして、ぼくはエレアコと歌だった。かつて、一緒にやっていた時とは、それぞれの担当する楽器は異なるし、そもそもが回顧にふさわしくない曲しか「絶対零度」はやっていなかったとも感じる。だから、やはり回顧趣味に浸ろうにも浸れなかったし、「絶対零度」の曲はきっかけだったのだと思う。

笹山君の「亀裂」のキーボードは、ドアーズを思わせるものだった。そして、「百足」ではかつて大熊君が弾いていたフレーズも交えながら、印象的かつノリの良いピアノを弾いていた。大熊君のクラリネットは、これは手前味噌だろうけれども、これまで聴いた彼の演奏のなかでも、リラックスし、艶っぽく、そして、自由に変幻しとび回る感じのクラリネットだった。

そして、ぼくはとても充足した気持ちで、ある種の忘我のようなとても満たされた幸せな気持ちになりながら、ギターを弾き、歌っていたのだった。自らのビートに忠実になりながら、しかし、決して偏狭になることはなかった。

大熊君、笹山君、そして、ぼく。それぞれの音楽表現者としての現在の在りようを確認できたと思う。繰り返したり、継続すると嘘になるんだろう。だから、今度、いついつやります・・・ということに、元「絶対零度」はきっとならないだろう。おりにふれて、やってみたい気がする。そのおり・・は、いつになるんだろう。いつ、ぼくは、また、やってみたい・・・と思うのだろうか。半年後かもしれない、1年後かもしれない。あるいは、10年くらいがすっとたってしまうかもしれない。

大熊君、笹山君、そして、ぼく。この3人が一緒に人前でやるのは、16年ぶりだった。それぞれが異なる経緯を経ながら、再度、plan Bという場のなせるわざによって、一緒に人前でやった。しかし、演奏していた時、それは回顧でもなく、かつてやったことを思い出すのでもなく、それぞれの現在が展開し、響きあい、増幅し・・・、展開した・・のだろうと思う。

この文章は、とりあえず、このへんにしておこう。おりにふれて、笹山君なり、大熊君なりに感想を取材してみたいと思う。 970502 文責;中川一郎




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