インターネットが変える世界



書評というものが、本来どのような情報を備えておくべきなのか・・。この根本的な問 いを封印したまま、偉業と思われる労作について述べてみようと思います。
現在のように、既成メディアがこぞってインターネットを取り上げ、使い込んでもいない権威者たちがメディアを動員して何だかんだとノイズが多い時にこそ、本書のような思想的バックボーンの歴史的整理が必要なのだと感じます。

本書においては、ネットの「ユーザ」の捉え方が、WWWをこぞって取り上げる既存メディアと根本的に異なります。自分たちがしたいコミュニケーションを実現するために積極的に動き、情報も発信する人々として「ユーザ」が捉えられています。既存メディアは、都合の良いところだけ人々の表現を取り入れて、「双方向」幻想を作り上げたり、あるいは、楽屋を「突撃取材」することで「内輪」感覚幻想をデッチ上げてきました。本書では、ネットの場合は根本的に異なるとします。この点を、WWW=ネットという形でネットを既存メディアの延長線上の安全な領域に囲い込む(enclose)動きがウルサイ昨今であるゆえ本書のスタンスは重要だと感じられた次第です。

イヴァン・イリイチがDe-schooling理論において提唱した、Conviviality(共愉性という新たな訳語を本書は提唱する)の場の創造こそがネットの思想的バックボーンだったといいます。日本的文脈では隠蔽されがち、無視されがちな考え方の系譜を辿ったのは良かった。自ら発信する表現者同士のフラットなコミュニケーションとそのLink!Link!Link!の総体なのだという感覚は、ネットがメディアで取り上げられる時にはあえて語られないゆえ、本書の貢献は大と言えましょう。

仕掛けるサイドでは、人々を情報受動と固定してとらえ、操作可能な対象とし、そして、人々が発信することを認めようとはしません。そして、既存メディアを大動員して、「情報受動大衆モデル」のなかに人々を囲い込むことができると思いがちです。 しかしながら、インターネットの構造はそもそもそこでは済まないとし、ユーザが欲しい仕組みを自らコミットしながら造り出して来たプロセスがバックボーンだとします。コミュニケーションを生業とする私たちはこの大きなメディアの磁場の変化を謙虚に受け止め、行動を修正していかなくてはならないのでしょう。

権威のある人物が執筆する、年表もインデックスもビブリオグラフィーもメール・ア ドレスも掲載されていないインターネット関係の使いにくい本が蔓延するなか、とて もユーザ本位の使い安い書物だという点も共著者二人による思想の実践と思われます。

そろそろインターネット論業界にも世代交代の波が訪れることを感じさせる岩波新書 の一冊でありました。

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