村上 龍「憂鬱な希望としてのインターネット」



全般の感想は・・・

もとより洞察力を有するテキスト表現者が
自分自身のネット経験、実践を踏まえて
ネットについて記述したテキストは、
実に、洞察力に富んでいる

というわけです。ほとんど、同義反復となってしまいました。

「コインロッカー・ベイビーズ」とか、「愛と幻想のファシズム」に描かれている世紀末の退廃、荒廃の極という感じの東京が印象に残っていて、以降、時おり読んでははまってしまうのが、私にとっての村上龍作品群であります。

以下は・・自分自身の備忘のための引用と注釈です。


P10
「冗長なもの、無駄なものから新しいことを発見することが多いんです。」

時間があってウェブサーフィンを思う存分してみたいと、今も思います。「新しいもの」を発見するのは、「無駄」な時間から・・ということかとも思います。


P12
「僕は起こってしまったことはすべて良いことだという考えをもっているので(笑)、こうした状況をポジティヴにとらえています。」

プロバイダの淘汰について述べたところなんですが。しかし、このテーゼは頭の片隅にいつでも置いていたいと感じます


p14
メディアの歴史を踏まえると、負の要素を内に取り込んでいくことが成熟につながる場合もあると思います。

異物との共存を許容できるかいなか。鶏鳴狗盗にも通じる。消毒と隔離を繰り返すと、消毒と隔離を繰り返さずにいられなくなり、その結果メディアも、街も、通りも、そして、人も・・ひ弱になるということでしょうか。猥雑なコンテンツこそが、メディアに活気を与えてきたことは、メールマガジンの上位発行部数ランキングの上位の内容からも伺えます


P16

クラッカー

がきちんと注釈されていて、「ハッカーとクラッカーの意味の違いを理解して使うようにしたい」ときちんと書かれていて、立派だと思いました。


P17
日本のような均一的な共同体の中ではという前置き付きですが、ネット では本当に自浄作用が働くんですよ。

これは、経験しないと言えないことです。その作品やインタビューを読むたびに、村上龍という人は、生き方において、書くことにおいてごまかしがない人だと認識しておりましたけれども、この本では、この一文はごまかしがないことを裏付けているように思います


p21
ROMしている人はものすごく多いと思うんです。そういう人たちの無言の圧力みたいなものがあるんですよ。(笑)

p17に関連してのコメント。本当に経験に裏付けられていると思います


p23

不特定多数の人の言葉が入り乱れる掲示板のような場で一番大切なのは、表象能力なんです。ある書き込みに対して意見を述べるときに、その人が相手の言葉の核心を読み取って、そのメッセージに向けて自分の考え方を表象化し、自分の言葉で正確に言説化することが大切なんです。きちんと表現できてさえいれば、どんなに厳しい批判でも人間は受け止められるんです。高度な表象能力で表現できるかできないかが、インターネットでは大きくなってくると思います。

ぐだぐだ言うまい。この道を極めなければ。表象の精進か。家訓にしよう。また、今後の生きる、修行する、指針にしたいと思います


P27

作者が読者に情報を与えるのみならず、読者によって作品の本質を教示される、そういうインタラクティヴィティの形を発見できたことが嬉しかったです。

Interactiveであることの本質。あいまいさを残さないこれはこうでしかありえないという作品の執筆。この潔さはありますね。これはこうでしかありえない。作品を人に提示する時、その瞬間はそうでなければ。そのような執筆作品に対する反応から、執筆者が自らのメッセージの意味を見出す。作品が作品然として鎮座ましまさないダイナミックな作品の在り方。


P28
「人格や精神を規定するのは経済です。・・最近、経済心理学または、心理経済学という分野があるということを知りました。・・経済によって精神が解放されることもあるのです。

一瞬「下部構造が上部構造を規定する」という史的唯物論のテーゼを思い起こしました。宝くじ一回で変わるぼくの世界観。ネガティブな言い方をすると、「貧すれば鈍する」か・・。この冬のジャンボはあてたい。合理的期待形成学派の考え方を10年ほど前に解説された時、「な〜んだ。すべて経済現象は心理学に還元されるのか」などと早合点したことを思い出しました。


p31
父権の内実が「禁止」や「拒否」や「支配」であるとするならば、インターネットが開かれていけばいくほど、コミュニケーションの総体が父権とは逆の方向にむかうことは確実でしょう。

解放的なコミュニケーションのインフラが解放的なコミュニケーションを実現し、ひいては、解放的な人間関係を実現する。発信の希少性が発信者に権威を付してきたが、その歴史は終わる・・かと思ってたんだけれども、発信の希少性はなくなりつつあるのかもしれないけれども、しょせん人の一日は24時間という制約から、注目の希少性を巡る競争がやはり経済的価値で起こる。しかし、注目を集めるための競争は、父権ではないのかも


P47
欲しい情報をあらかじめ文脈かしてしまってはいけないんです。欲しいと思う情報をシャワーのように浴びて、その後は自分で考える。それが僕にとっての情報収集の本質です。

謙虚に受け止め、目一杯一人称で考える。往々にして、誰かの文脈に依存しながら情報を受け止め、その結果、考えることができない・・そのくせ知っているような気になる自分にとっての反省材料として・・


P50
日本人は外圧がないと変わらないとよくいわれるけれど、どの国もそうなんです。どの国も外圧で変わるんですよ。人間も社会も国家も外から脅威がやってきて初めて変わるんです。

あっ、そうか。そうか。つまり、日本人についてしか言及していない言説に多く触れただけだったんだ。と目から鱗が落ちるような思いに浸りました


P54
一般化することで、キレるという行為の持つリアリティは奪われていきます。日本はこれまでそういう仕方で、共同体の中に「現象」を取り込んできたんです。キレるというようなことをきちんと翻訳できないで、彼らがキレている現実に対処できるはずがありません。そういう当たり前のことを誰もいわないんです。

言説汚染とでもいうべき、言説が流布している。きちんと突き詰めない言葉、ものいい、言説にふれているうちに、なんとなくわかったような気がしてしまう。「本当にわかっているの?」という問いを発する人に「わからず屋」とレッテルを貼る側にまわる人が多くなる。「わからず屋」と口にすることなく、それは陰口であったり、「あの人はわからず屋だから・・・」という思考習慣。


p76
インターネットを一般論で論じることより、こういった具体論から把握していく姿勢は大切ですね。ハード的な制限によって、ソフトをつくる枠組みが決められていくはずですから。たとえば、こういうことをやりたいけど現在の環境では不可能だからインターネットはつまらないという考え方は間違っていると思いますね。・・・メディアの特性自体にクレームを付けるより、そのメディアで何ができるかを模索すべきなんです。

これからも模索していきたいと思います


p77

問い:・・インターネットの一番の特性はどういうところにあると考えていますか。

制作してから発表するまでのプロセスが効率化されているということでしょうね。

プロセスが非効率であることが、制作・発表の希少性をもたらし、それが、権威につながったのがこれまで


p81
映画や小説でもそうなんですが、とりあえず読者に興味をもってもらうための努力は必要です。・・読者やユーザーを無視して自分のやりたいことをただやるという方法は、クリエーターとしては無謀というか怠慢だと思います。

以降、何かを表現する自分に対する戒めとする。


P85
金銭の授受がないと批評は成立しないんです。どんなにくだらないものを書いても、無料なんだから文句をいうなって反論できますからね。・・サイト運営を経済活動にしないと批評性が成立しないわけです。批評性のないところには発展も成熟も有り得ないでしょう。

金はとらないけれども時を奪う・・ということはあるんだ。だから自分のウェブページをつくる時にも、そりゃ、結構、書き残したいことだけを書き残すみたいなことはあるけれども、「時間を使って読んでいただけるのかもしれない」ということはどこかで意識しているんだ。しかし、たしかに、「こんなもんに突き合わされて損した」というレベルでのものいいは、その程度なのかも。それよりも「金返せ」というところに帰着する批評は、読む方も真剣だから。真剣さを確保するための課金ということか。書き物では、まだ、そこまで踏み切れないが、いつかためしてみたい


p100
ネットに限らずあらゆる表現にはプロデューサー的な資質がないとだめだと思いますね。

今後の精進の領域


p102
問い:マルチメディアの中でのテキストの位置の問題についてはどうでしょうか。
映画でも一番大事なのは脚本だというのはとりあえずの常識ですし、サーカスでも言葉というか演出のコンセプトは重要なファクターだと思います。オペラにおいても台本は大切ですね。ぼくはマルチメディアということで逆にテキストが重要になってくるんじゃないかと思っています。マルチメディアのような複数のソースを使う表現はテキストなしでは作品が成り立たないでしょうね。

だからこそ、なおさら、やっぱり、表象能力を磨くと


p127
コミュニケーションには、個人対個人のコミュニケーションの形しかないわけです。個人であることをお互いに認め合うことから出発するんです。個人対個人という対等の関係に立ったときに、相手に失礼なことは聞けません。「ところであなた援助交際してるの?」なんて質問は、個人に対して失礼だからできないんです。普通に聞けることから始めて、向こうが答えたいと思ったら語ってもらおうというタンスです。・・・インタビュー以来、女子高生とか女子大生とかOLとかいうカテゴリーでものが書けなくなってしまいました。

人が生きるということはコミュニケーションをしつづけるということと多かれ少なかれ同義なわけだから、だから、これは生きる指針である。カテゴリーで人と対応するよりも、その時、その時のコミュニケーションこそ真実とする。そういうコミュニケーションのしかた、すなわち、そういう生き方。精進するとはこういうことをいうのだろうかとも思う。


P128
サイバーワールドに物理社会の力関係が濃縮されることは決まっているわけで、そうしたことを理解して持つ(注:個人ホームページ)なら構わないと思います。物理社会においてあるレベルのことができない人はインターネットでも無理なんです。

一日10ヒットの我がウェブページ。登録アドレス数60の我がメールマガジン。そうですよねえ。やっぱり、物理社会における力関係からするとこういうことになるんですよねえ。そうなんだなあ。それを認識しながら、しぶとく物理社会でも歌い続けようという気になっているんですよね。物理社会でも続けることで徐々に力ついてくだろうし、それがいずれウェブページ等におけるぼくのプレゼンスにも反映されるだろうという希望ですよね。物理社会で歌うぼくの在り方とネットにおけるプレゼンスとが、ポジティブなフィードバックの関係になっているようには思えるんで、まあ、がんばります。ってなところですねえ。


p162
・・・人間は何でこんなにコミュニケーションしたがるのだろうか、という疑問にとらわれるのだ。基本的に、コミュニケーションはさもしく、憂鬱なものだ。どういうわけか人間は独りでは生きていくことができない、という事実をコミュニケーションの現場でわたしたちは時おり確認する。
この本で繰り返し語られているとおり、インターネットはコミュニケーションの効率化という意味では15世紀のグーテンベルクの印刷機に匹敵する究極のツールであると思う。人間にとってコミュニケーションが必須のものであるならば、また人間はコミュニケーションそのものであるという魅惑的な考え方に立つならば、未成熟のメディアであるインターネットはしばらくの間「憂鬱な希望」であり続けるだろう。

この本の逆説的なタイトルの意味するところが結語で語られ、「ああ、なるほど」と腑に落ちました。人はコミュニケーションに喜怒哀楽し、絶望したり、希望に満ちたりする。その究極のツールなんだと。生老病死苦、四苦八苦。そもそも生きることがコミュニケーションの総体のようなものであるし、考えたり思ったりというのも過去、未来、現在の自分とのコミュニケーションなんだろうし、ということは、生きる=コミュニケーション=四苦八苦=憂鬱・・そもそもそういう構図なんだろう。てなわけだから、そして、それはある種のあたり前田のクラッカーなわけだから・・、この本のタイトルは「・・・・希望としてのインターネット」と読んでいいのかもしれない。

981114 中川一郎 




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