98.08.29 しがらみフル、から、しがらみフリーなコミュニケーションへ・・

もう、すでに、相当言われ尽くしたことなのかもしれない。けれども、自分なりに思いをまとめてみたいと思ったので記してみる。

日本語は、人間関係の上下を意識して使わないと使いこなせない。普通に思い出すとまったく対等にコミュニケートしうる場合の方が少ないような気がする。敬語。一般的にな丁寧な表現ということではない。相手との関係で自分は上なのか下なのかを即座に察知して、表現を使い分けないと、「生意気な・・・」「失礼な・・」とのレッテルを貼られる。また、「え、なんでこいつに俺、こういう口をきかれるわけ?」と結構気分を害することもある。それほどまで深く、この「上下関係」というものはしみついている。

この上下関係にまつわる悲喜劇はいろいろとおこる。たとえば、大会社で定年を迎えた人が関連会社などへいく。かつて先輩風を吹かしていた人だったりする。その人がかつての後輩のところに揉み手をして、おべんちゃらを言い、そして、目一杯の敬語を使いながら注文を取りにいったりする。内心不愉快でたまらない。この新しい状況に適応できないと、ぷっつんと切れて、終る。後輩が後輩で手のひらを返したように、これまた、見下すような口調で話す。これまた、ぷっつん予備軍になる。ことほどさように、難しい。おべんちゃらを使っても、正しい敬語表現でないと、「なんだ、あいつ馬鹿にしやがって。」なんて思われて、「あんなやつに注文やるもんか。とか、あのおじさん、自分の立場がまだわかっていない」とか、これがうまく敬語表現が身についても、態度がでかかったりすると、やっぱり表面的だ。と。まあ、とにかく難しく、さまざまな悲喜劇が生まれるのだ。

また、この上下関係が災いして、コミュニケートできる人の範囲も狭くなる。「この話は社長同士ですかねえ」とか、「あの方のお役職は、当社の相応の役職者が対応させていただかないと失礼にあたりますので・・・」云々。

顔が見える。他の社会的な関係性を捨象する。しかし、それだけでも上下関係は発生する。どちらが年上か。そこで、どの敬語を使うかが決まってくる。相手に失礼にならないために。

自分が「上」だったとしたら、「上」なりのぞんざいな言葉を使い、「下」なら「下」で何か「へつらった」ような言葉を使う。そういうことで、保たれる権威の秩序。その権威の秩序の護持。権威の秩序の体系・・・それを「しがらみ」とでも呼ぼうか。しがらみに充ちた世界。そのしがらみフルな世界の谷間にさまざまなことが失われる。虚心胆懐なコミュニケーション。心と心の通い合い、一期一会。そんなことが失われている。

インターネットが開いたテキスト・コミュニケーションの地平。それは、その意志さえあれば、その気にさえなれば、しがらみから自由なコミュニケーションが可能となり、そして、しがらみから自由な、その「場」の話題。その「場」に参加する人々の興味。大切なのは、そのテーマに沿って、何を表明できるかいなかということであり、年齢とか、年収とか、どの学校を出たかとか、どの会社に勤めているかとか、役職だとか。何とか、かんとか。そういうコミュニケーションを不自由にする要素を、その気になれば、相当排除できるコミュニケーションの在り方が可能になった。そして、そのようなコミュニケーションの在り方が人間関係に反映される。権威やしがらみから自由なコミュニケーション。心がけさえすれば、そういうことができるようになった。

ぼくが、94年にメーリングリストを勤務先の社内ではじめた時。「しがらみ本位」ではなく、しがらみフリーで、コミュニケーション本位の人と人との関係のしかたが実現されたような気がした。それは気分が高揚する経験であった。

当時、メーリングリストを実現できる環境というものは誰でも手にできるものではなかった。「場」のなかにおける、「しがらみフリー」なコミュニケーションは実現できたけれども、しかし、テキストによるコミュニケーションも継続していけば、そこに関係はできる。そして、そこで、それだけのコミュニケーションが積み重ねられてきたというその事実が、それは、新たな参加者---新参者---には「しがらみ」に映る。

メーリングリストをはじめるコスト自体もゼロに近づいた今、その気になれば、新しいMLをはじめればいい。「しがらみ」フリーは相当に達成された。

今、残る問題。それは、そのメーリングリストなり、「場」というものを知らせる力、伝える力である。お金をかけられる人は、宣伝できる。インターネットを使ったさまざまなテキストコミュニケーションの中に宣伝マネーが入り込んでいる。そして、そのお金の力で、しがらみが持ち込まれてきているようにも思える。

全文検索のサーチ・エンジン。相当きわどいキーワードでもウェブページにいきつけるようになった。けれども、同じ様な場がたくさん出てきた時、やはり、宣伝にお金をかけた方が、出会いを有利に進めることができるといえば、できるのかもしれない。

しかし、口コミの力というものもあなどれない。100の宣伝よりも、ひとつの感動だろう。お金に恵まれない人でも、粘り強く表明を続けることで、じわりじわりと感動の力がパワーとなることもあるのかもしれない。メーリング・リストのような「場」の力。そこで生まれる感動的な出会い。それは、「実は・・・●●なのです」ということの共有。カミング・アウトのパワー。「だまりとおした年月」の辛さを共有できる喜びが生み出す出会いの力なのだろうと思う。

さて、これから、ネットはどのように変容を遂げていくのだろう。しがらみフルになろうとするのか、それとも、よりしがらみフリーなのか。しがらみフリーの方が人は感動しやすいコミュニケーションができるのだろう。だから、一層、しがらみフリーになるのではないか。この同義反復のような直観と展望なき展望によって、ぼくは、客観的にはなれないけれども、楽観的でいようと思う。

98.08.29 中川一郎





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