それは、その時刻から、いきなり、はじまった。
マクドナルド渋谷丸井店で、軽く腹ごしらえした俺は、「ああ、店のなかで俺が 最年長者であった」それにしても、「渋谷、渋谷した空間であった」などと物思いにふけりつつ、雨の中を歩いた。柄が曲がってしまった傘。忘れ物になっても良いように、そんな黒い折り畳み傘をさしていた。
住友信託銀行の前を通り、「ああ、あそこにもマクドナルドがある。あっちの方が、渋谷、渋谷していたのかも」と思いながら、すれ違う渋谷な若者たちの恰好が、渋谷、渋谷していることを意識しながら俺が向かったのはハチ公口だった。俺たちは、この国の根底をゆるがしかねない深刻なプロジェクトを秘密裏に貫徹するために、そこに集まることにしていたのだ。
すでに、K氏とS氏は到着していた。ともに時間に正確であった。「あと、N氏とO氏ですね。PHSにかかってくるでしょうね。きっと。」と俺が語り終えようとしたその時・・・
いきなり、突然、唐突に、突如、それがはじまったのだ。
「あい〜、あい〜」
若い女の声だった。
ふりむくと、サンバにでもでかけるんじゃないのかなといういでたちの10代後半であろうと思われる女だった。頭に白い飾り物をして、頬にハートのマークを口紅で描いていた。「あい〜、あい〜」彼女の声は徐々に大きくなる。チアガールがもっている小道具、英語でポンポンというやつだ。それを大きく振りながら
「あい〜、あい〜」
と叫ぶのだった。
彼女の正面のベンチに座っていた長髪の若者が立ち上がって・・、「ねえ、これ、何なの?」「気になっちゃうよ。ねえ・・・」と彼女に話しかける。
彼女は気にもせず、
「あい〜、あい〜」
と叫びながら、踊り続ける。
俺たちは、おおざっぱに要約すると以下のような会話を交わしたのだった。
−−−− 何なんですかね。
−−−− 罰ゲームですかね。
−−−− なるほど、するどいですね。そうかもしれませんね。
−−−− 渋谷ですからね。
−−−− そうですね。
−−−− それにしても、O氏とか、N氏から携帯で電話かかってきたら、この愛、愛、愛の人。いい目印になりますね。待ち合わせにぴったりでしたね。
−−−− そうです。都合よかったですよ。
−−−− いやあ、よかった。よかった。渋谷ですからね。何でもありですね。
−−−− そうそう、渋谷ですから。
「あい〜、あい〜」
叫びと踊りは続く。
はじめは、その意味が、まったくわからなかった。
しばらくしてから、
−−−− そうか、「あい〜」とは、「愛〜」のことだったのか
と俺は納得した。
−−−− そうか、だから、ほっぺにハートだったわけか。
−−−− そうか。あい〜 が、愛だとは気づかなかったな。
−−−− ははは。こりゃあ、参った。ははは。(^^)/
と一人、合点していたのだった。
その後、O氏から、直接、プロジェクトの実行場所に向かうとの連絡があった。雨のハチ公口で、N氏もすぐに合流した。ひとしきり初対面の人たちの紹介を終えて、俺達は目的地に向かって歩きはじめた。
皆、時間に正確であり、また、連絡も綿密であり、教科書に書いてあるような待ち合わせだった。すばらしい。
それにしても
「あい〜、あい〜」
叫びと踊りは続く。そんなハチ公前を後にして、俺達は、109の対面のビルを目指して、スクランブル交差点を渡った。雑踏に紛れて、叫びは聞こえなくなった。
そして、おれはその「あい〜、あい〜」の声も女の姿もすっかりと忘れていたのだった。
* * * *
「そういえば・・・」と思い出したのは、3日後の昼間のことだった。
「今週の土曜日の7時過ぎにも、あれをやるのかな。」
どうして思い出したんだろう。
近頃、なかなか黒字にならない事業のことを「鉄の意志で、金を失い続ける事業だ」と言及することが多くなった。他愛のない冗談まじりで自嘲的な言い方なのだが 、相手の業界が「金失」関係だとまずいのかもしれないなと反省している。
* * * * 中川一郎 執筆(98.06.21) 著作権者